映画「エゴイスト」と原作小説との違い・・・削られた生活保護の話と、足された高級マンションと現代アートとセックスシーンと「夜へ急ぐ人」。

マイノリティを取り上げるとき、当事者の話を聞く・・・本来は当たり前のことだと思うけれど、今までなされていないことが多かった。

だから映画「エゴイスト」の松永監督や鈴木亮平さんのゲイに対する真摯な言葉が、情けないほど心に響いたんだと思う。
https://editor.note.com/notes/n5fb58e5d2a55/edit/

そして、実際に「エゴイスト」を観た。
映画は、何というか、のめり込める感じではなく、「でも、立派な人たちが作った映画だから評価しなくちゃ・・・」みたいな気持ちになった。

その後、原作を読んだ人と話す機会があったのだが、話が噛み合わなくて、「もしかして、映画と原作とでは、内容が違うのかも」と思い、早速Kindleで購入。
原作を読んでみると、自分が不思議に思ってたところが、原作ではなるほど、という内容になっていることがわかった。

  1. 映画からは削られた生活保護のこと 

ストーリーは
「編集者である浩輔が、高校を中退し、体の弱い母と二人暮らしのパーソナルトレーナー、龍太と付き合い始めるが、龍太は別れたいという。その理由は龍太がウリセンをしているから。浩輔は、龍太に、ウリセンを辞めさせるために毎月10万円を渡し、龍太はウリセンをやめたが、龍太は過労のため死んでしまう。その後も浩輔は、龍太の母にお金を渡し続けるが、龍太の母も癌で亡くなる」
というもの。

映画を観てる間中、私は「福祉に繋げてー。区役所に相談してー」って心の中で思ってた。(ツイッターをみると、そういう人は結構いたみたい。)

エゴイストの原作の小説では、龍太のお母さんが「この間、お金のことはもう気にしないで、言ったでしょ。・・・生活保護がやっと認められたのよ。医療費がかからなくなったのよ」という箇所がある。龍太が亡くなってからだけど。

映画でなぜその部分を削ったのか、私には理解できない。とても重要なことに思えるから。龍太のお母さんが、癌でさらに息子さんも亡くした状況の中で、一緒懸命生きていることがわかる部分だと思う。削ってしまうと、そこが伝わらないと思う。
映画の中の龍太のお母さんにはそういう強さが感じられなくて、現実感のない、なんだかふわふわした人に思えた。

2.映画に足されたもの・・・高級マンションと現代アートとセックスシーン

私の周りで話題になっていたのは、浩輔の住むマンションがとても高そうだと言うこと。「編集者ってそんなに高給なの」のという疑問が多かった。

原作の中では全く高級マンションには住んでいない。そもそも浩輔の経済感覚が映画と原作では全然違うんだよね。
映画では浩輔は龍太に高級寿司をお土産に渡したりしているが、小説の原作ではデパ地下で家で食べる巻き寿司のネタをお土産に買ったりしているし、その値段もしっかり書いてある。浩輔にとって、毎月10万円渡すのは結構大変で、そのために自炊をしようと思うのだが、お米を研ぐ水が冷たいのが嫌で100円ショップでカップ麺を買ってしまう、という場面もある。私はその方が全然リアルだし、10万円の意味も全然違ってくると思う。

なんで高級マンションじゃなきゃいけなかったのか。その答えは監督のインタビューの中にあった。

https://www.esquire.com/jp/culture/interview/a42700984/matsunaga-daishi-director-interview-movie-egoist/

> 書かれたエッセイなどを読むと、(原作者)高山真さんはかなり教養のある人。だったら浩輔は部屋に偽物は置かないだろう…と。ピカソやダリのレプリカなんか絶対置かない。そしてファッション誌の編集者なら、きっと本物の現代アートが置いてあるはず。そう思って知り合いの作家である高山夏希さんのあの作品を使わせていただくことになったので、そこからロケハンを始めました。あの大きさの絵がかけられる壁が必要だったので大変でした。でも、亮平も毎朝セットに入ったときに「あの絵があることでちゃんと浩輔に戻れる」と言っていました。それくらいひとつのアイテムが重要なのですよね。ひとつひとつに丁寧に向き合うことで、シンプルに人に伝わると思いました。

原作の浩輔は、自分を守るためにブランドものを着たりはしていたけど、高級マンションに住んだり、本物の現代アートを飾ったりはしてない。
原作に描かれているリアリティを削って、監督の考える「素敵なゲイ」にしてしまっている、と思う。

原作では、浩輔は、龍太とのセックスについてはとてもあっさりと書かれている。というか、浩輔にとってはあまりいいものではなかった。「ありきたり過ぎて不自然」と感じている。しかし、浩輔は、「体の相性などものの数には入らない。絶対にあの男を、手放さない」と思うという話になっている。

映画では、浩輔と龍太のセックスが描かれ(それは原作とはだいぶ違う趣のものだ)、そして、龍太とウリセンの客のセックスシーンも描かれる。これについては、なんていうか、監督はやりたかったんだろうし、見たい観客も多いと思うけれど、でも原作者が考えていたこととは全然違うよね。

原作と映画が全く同じでなければいけないとは、思わないけれど、セックスは合わないけれど関係を続けたい、と思った作者はもう、映画の中にはいなくなってる。

龍太が部屋を去った後、浩輔は毛皮のコートを着て、ちあきなおみの「夜を急ぐ人」を歌いながら踊るシーンがある。

これは原作にはない。原作では、龍太が初めて浩輔の部屋を訪れ、去った後、「僕はすっかり冷たくなったコーヒーを一息に飲み干した」となっている。

なんで、原作では冷めたコーヒーを飲み干すだけの浩輔が映画では踊るのか・・・私には「面白いから」としか思えなかった。
でも、何のため?なんていうか、そういうのが「ゲイらしい」と思ったから?

4.その他の違い・・・
原作では龍太は自分からウリセンをやっている、とは言っていない。浩輔が龍太のセックスを不自然に思い、ウリセンをやっているのではと推測する、という、ちょっと切ない、というか、せちがない、というか話になっている。浩輔にとって、龍太がウリセンをしていたことは、嬉しいことではないけど、非難するようなことでもなく、でも、全然気にならないことでもなく、「そうなんだ」と飲み込むことなんだと思う。

また、映画では、龍太のお母さんが自分で浩輔にガンであることを話すが、原作では、彼女が晴海の病院に通っていることから、浩輔がガンであろうと推察する。そして、お母さんの通院のために車を買う。

私には、浩輔が、特に人並み以上の善意があるわけではないのに、現実に関わりを持った人のために、思いもかけないようなことを受け入れ、引き受けてしまう人、と思えた。

そういう諸々のことを削ったり、足したりして描きたかったものは何なのか。

それは監督がゲイの当事者の人を取材して考えた「ゲイ」なのかな、と思う。
高山さんの原作をもとに、監督が「自分の描きたいゲイ」を描いたってことなんだと思う。

でも、私には、高山真さんの原作の方が、共感できた。
監督が、「自分の描きたいゲイ」を描くために、削った部分は私にとっては大切なものだったし、足したものは私には不要・・・正直に言えばくだらなく思えた。

生身のゲイの不器用なリアリティを削って、ゲイじゃない人が面白いと思う「ゲイらしさ」が足すというか。

ある一人のゲイの作品から、その人のリアリティを削って、ゲイじゃない人が面白いと思ったゲイの特性?をくっつけてできるものって、結局ゲイじゃない人のファンタジーで、広い意味でのBLだと思う。

まとめると、「あー、また舐められた」っていう気持ち。
「きのう何食べた」とは違った形で舐められた気がする。

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