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最後の選択【ショートショート】

 細く開けた窓から風が入ると、ふわりとカーテンを揺らした。風はほのかに温さを感じ、窓辺にそびえる桜の木はちらちらと花をつけ始めている。春が来たのだなと兆治ちょうじは思った。
 なんと穏やかな時間であろう。ベッドの上に横たわったまま、ふとそんな風に感じた。こんな時間が訪れるとはついぞ思わなかった。それほどに浮き沈みが激しく、生きることに執着した人生を送ってきたと思うのである。
 最初に記憶しているのは広い家であった。農家を営む一家の四男として生れ、豪農であり裕福な生活をしていたのだが、父親が連帯保証人として借金を肩代わりしたため、畑や家を売り払い、残された蔵が家族の住み家となった。わずかな畑で自給自足をして当座をしのいでいたので、食べ物はなんとか手に入り飢えることこそなかったが、暮らしは貧しくなった。
 兄や姉たちは十六になると家を出て働き口を探し、それに倣って兆治も家を出た。とにかく働ければなんでもいい。食事と住むところさえ確保できれば十分であった。なんとか住み込みで雇ってもらえるレストランが見つかり、がむしゃらになって働いた。𠮟責ばかり受けフライパンが飛んでくるような日々だったが、そんなことでへこたれるわけにはいかない。なにしろ、ここにいなければ生きて行けなかったのだ。
 しばらく働き続けていくうちに、大日本帝国陸軍から召集がかかり入隊することになった。死と隣り合わせの世界へ駆り出されるのかと思うと怖くてたまらなかったが、もちろん拒否などできるはずもない。レストランのオーナーから包丁とプライパンの餞別を受けて持参したところ、持ち込み一切禁止の陸軍において、野戦調理で有用になると特別に許可がおり、戦地でたびたび炊事を任された。生きるために身についた技術が思わぬところで役に立つのだなと思ったものである。銃声が飛び交う戦地では、とにかく生きることに必死で将来など何も考えられなかったが、死にたくはなかった。
 やがて満州で終戦を迎え日本に帰ってくると、働いていたレストランは焼け野原となって跡形もなくなっていた。日常に戻れる安堵感の分だけ絶望し呆然とした記憶がありありと思い返される。なんとか兄と連絡を取って居候をしながら働き口を探し、ホテルのレストランに社員として採用された。ただ生きるために就いた料理人という職業だったが、この時にはシェフとして生きようと決めていた。
 地道に出世を重ねて料理長になり、独立できるだけの資金が貯まると、退職して店をオープンした。この時すでに四十を過ぎていて、非常に時間がかかり遅い独立だったが、オーナーシェフになったことが夢のようであった。  
 ところが開業して一年と経たないうちに利き腕の右ひじに異変が起きた。持ち前の忍耐力でしばらく腫れと痛みに耐えていたが、どうにも我慢できなくなり診断を受けると骨に腫瘍ができていて、切断が必要なところまで進行していた。利き腕を失ってはシェフとしては致命傷だ。包丁を握るどころか、鍋ひとつ満足に洗うこともできない。治療のための医療費はかさみ、営業できず店は閉店に追いこまれ、莫大な借金だけが残った。
 シェフとしての人生を失って、いったい何をよすがに生きて行けばいいのかは分からなくなった。料理をすること以外に能がない、そのうえ利き腕もない己に、これからどんなことができるのだろう。
 そんなどん底の状態で知人に相談し、知恵をくれたのはありがたかった。料理ができなくても知識は残っている。それならば料理研究家でもなれるし、店をプロデュースする側にまわったっていい。農家の出なら飲食店と繋ぎ役になることも不可能ではない。決して簡単に事が運ぶとは思わないが、この時代を生き抜いてきたのだからやれないことはないだろうと発破をかけてもらった。
 兆治は一から出直すつもりで新たな道を模索し続けた。シェフの時代には疎かにしていた人との繋がりを積極的にやるようにもなった。いつになっても山があれば谷もある。オイルショックやバブル崩壊といった国を揺るがすほどの打撃をいくど受けても、その度に再起を誓った。
 世の中に名声を残すほど大きなことをやったわけではない。ただ地道に生き抜く道を選び続けた。齢とともに体が老い、足腰が弱って歩けなくなるまでやり抜いただけであった。それは兆治にとって大きな誇りであった——。

 この桜が見納めになるだろう。

 延命治療などしたいとは思わなかった。あれだけ生きることに執着してきたのに、死期が見えれば存外そんなものである。むしろ執着してきたからこそ、最後ぐらい苦しみから逃れて安らかに死にたいと思うのかもしれない。ひょっとすると、人生の終わりにこんな選択ができるのは幸せなことではないかと、ふと思った。
 兆治はゆっくりと目を瞑って眠りにつく。ふたたびカーテンが揺らめき一枚の桜の花びらが部屋に舞いこむと、穏やかな表情を浮かべた兆治の顔を、まるで讃えるかのようにひらひらとかすめていった。

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