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#7 どんな未来になっても見失ってはならない人間の気高さ

人とコンピュータの関係性において、人工物/自然物の二分法を超越した自然観を持たない限り、人間は人間の隣人を認めることができないのではないかと思います。コンピュータと人間という、違う腹から生まれた同じような兄弟を認めるための自然観がデジタルネイチャーであり、その性質を追及していくことが「魔法の世紀」の研究でしょう。(略)。その意味で、(略)アンドロイドとの愛が成立するかを考えた『セイバーマリオネット』の問いは永遠です。

落合陽一『魔法の世紀』[2015: pp.194-195]

 今後、予想もつかないような姿に変容するであろう未来の社会において、わたしたちはどのように生きていくべきなのでしょうか。シンギュラリティは、今ある社会システムが「より便利になる」程度の変化のことではないのです。わたしたちの想像を超えてくるようなものです。なので、今の社会システムにおいては難しいことも可能になるはずです。そのとき、どんな世界が広がっているのか、見当もつかないというのが本音なのです。そして、シンギュラリティはある日を境に「今日から新しい世界です」となるわけではありません。実際は今も現在進行形で少しずつ変化をしているのです。つまり、すでにシンギュラリティは始まっている、ということです。

 わたしたちはテクノロジーによって能力を拡張してきました。その結果、多くの仕事をスピーディにこなさなければならなくなってしまい、結局のところ忙しさはあまり変わっていないか、もしくはより忙しくなったのではないか、というふうに感じていると思います。昔は考えられなかった在宅勤務というものができたり、家にいながらオンラインで会議に参加できるようにまで変化しているのです。オンラインでの就業が可能である場合、ほぼいつでもどこでも仕事ができるようになったため、便利である反面、仕事から離れることができなくなっているともいえます。わたしたちのシンギュラリティは、こんな環境の延長線上にあるのでしょうか。

 もしもこのような労働環境の延長線上に〈シンギュラリティ後の世界〉があるのならば、それはただ単に今まで以上にスピードが速くなっただけの世界です。それは速度という観点においては進化したといえるかもしれませんが、これまでと同じように毎日忙殺されることになるでしょう。もうそろそろ、仕事と時間に追いかけられているだけの終わりの見えない労働から自由になってもよいころなのではないでしょうか。誰しも自分の仕事とエンゲージメントの高い状態を維持していたいと願っているはずです。誰もやりたくない仕事を何十年もやりつづけたいとは思わないはずです。

 わたしたちの人生はもうほとんどの時間がオンラインになっています。なにか知りたいことがあるとき、誰かいろいろなことを知っている人に教えてもらおうとは思いません。自分で検索して調べます。そして、それがすでにあたり前のことになっています。この「あたり前」という状態は、それだけわたしたちが順応したということでもあります。この「あたり前」の感覚は年々拡張されていくはずです。今の世の中のありさまを10年前のわたしたちは思い描けていたでしょうか。わたしたちはテクノロジーによって拡張されていきます。もしかしたら、猫が鏡に映った自分の姿を見て、そこにもう1匹の猫がいると誤認するように、わたしたちも自分の見ているものが本物なのか、それとも作られたものなのかを気づくことができないほどになっているかもしれません。ただ、そんなSF映画のような世界になっていたとしても、人間は意志をもって生きることができるはずです。それは、そこに人間の生きる意味が隠されているからです。それをどんなときも見失わないことが大切なことなのです。そういった「個」を超えたところの〈ノーブル・パーパス〉(気高い志)にもとづいて生きていくことができるかどうかが、これからの人間の「生きる指針」となるのではないでしょうか。

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