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#6 〈シンギュラリティ後の世界〉をディストピアにしないために

カーツワイルは、とにかくこれまでの社会や政治、経済の前提がすべて覆るため、これまでとは不連続な予測不可能な歴史が始まると考えた。その意味で、この事象をカーツワイルはシンギュラリティと命名したのだ。予測不可能とはいえ、わかりきった予測がひとつある。そのときには頭脳労働の仕事は全部なくなってしまうはずだ。(略)。今、20代前半の社会人にとっては、自分たちがまだ現役の社会人のうちにホワイトカラーの仕事は消滅することを意味する。

鈴木貴博『「AI失業」前夜』[2018: pp.36-37]

 これからわたしたちが迎えることになる〈シンギュラリティ後の世界〉は、わたしたちの予想を大きく超えたものとして、わたしたちの眼前に現れることになるでしょう。そのとき、わたしたちは恐れおののくことしかできないのでしょうか。たしかに〈シンギュラリティ後の世界〉において、わたしたちのこれまでの仕事はほとんどなくなるでしょう。しかし、それは同時に大量失業を意味することにはなりません。それは、この〈シンギュラリティ後の世界〉においては、労働の概念が一新されているからです。下部構造の労働がAIによっておこなわれるようなころには、わたしたちの最低限度の生活はベーシックインカムによって支えられているでしょう。こうして、わたしたちから現在「労働」と呼ばれているものはなくなるわけです。そして、上部構造のクリエイティブな活動がわたしたちの「新しい労働」になるのです。

 この「新しい労働」とは能動的なものです。自ら進んでおこなうものです。そうした能動的な活動によって経済を回していくことが必要になってきます。ただ、この能動的な活動は、それぞれの個性にもとづいておこなわれることになりますが、それはなんでもいいから個性的なことをすればよいというものではありません。重要なのは、その活動が「どれだけ公共の利益になっているか」という点です。この場合の「公共」というのは、今とは少し意味が変わってくると思います。つまり、広く「社会」全体を対象とした「公共」ではなく、もっと狭い意味での「共同体」とでもいうような規模を対象とした「公共」です。下部構造の労働はAIがすべて担っているため、そのレベルではわたしたちは経済を回すことがほぼできなくなっていますので、わたしたちは上部構造の活動によってしか経済を回すことができなくなっています。ベーシックインカムによって、どれだけわたしたちの生活を支えることができるのか、正直なところ不明だと考えるべきだと思います。そのときの政策次第では、かなり厳しい状況に追い込まれるかもしれません。結局わたしたちはなんらかのかたちで経済を回す必要があると思います。つまり、なにがいいたいのかというと、わたしたちは現在以上に互助が必要になってくるのではないか、ということです。

 ベーシックインカムによって最低限度の生活が保障されているにもかかわらず、互助をしていかないと生きていけないような社会になっている、という可能性が考えられるわけです。来たるべき未来がユートピアになるか、ディストピアになるかは、それぞれの選択にかかっているわけです。ベーシックインカムに頼るのは、上部構造の活動がうまくいかなかったときだけくらいの気持ちでいるべきだと思っています。そうでないと、政策によって本当にまずい状況に追い込まれたときに、抵抗する力すらないことになってしまいます。わたしたちが考えなければならないのは、上級国民たちのこれからの時代における暮らしぶりについてではありません。わたしたちは雑草のように力強く生きていかなければならないのです。

 これからは能動的に生きる必要がある時代になるでしょう。そして、能動的にそれぞれの個性を発揮させて経済を回し、共同体の仲間と助けあいながら、たくましく生きるという、そんな生きかたを志向していかないといけないのだと思っています。〈シンギュラリティ後の世界〉は近い将来必ずやってきます。わたしたちが予想もしなかったかたちで訪れ、大きな変化を迫ってくることになるでしょう。そのとき生き残るためには、雑草のようにそれぞれが地に根を張ってつながりあうことで、「こちらがダメになったとしても、あちらの仲間が助けてくれる」というような、「個人」ではなく、「共同体」としてのレジリエンスを手に入れることが必要になってくるのだと思います。

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