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みらいの校則を創る皆さんへ

 日本で生活をしていると素晴らしいと思うことがあります。それは信号機のある交差点を通過するときです。青信号で安心して交差点に入っていけるのは、交差している道が赤信号になっていて、それを皆さんが守り止まってくれているという信頼があるからです。

 このような日本の姿は、警察を中心とした啓発活動の成果であることは言うまでもありません。それに加えて、学校教育におけるルールの遵守への指導が社会秩序の維持に役立った姿とも言えると思います。過去に教師をしていた経験のある私にとっては目に見える嬉しい成果です。

 一方、高等学校などで生徒にルールを課している校則については、一部の内容に批判的な動きもあります。東京都立高校のブラック校則問題や大阪府立高校の頭髪指導訴訟などは記憶に新しいところです。これらでは、主に頭髪や身支度と言った外見に対する校則に対して批判が多いようです。個のアイデンティティや人権への配慮が足らないと言われるのですね。

 実は、外見に対する校則への批判は今に始まったものではありません。昭和60年の熊本丸刈り訴訟など、昭和から平成にかけても外見に対する校則の是非を問う訴訟が行われてきました。これらの動きは、個のアイデンティティや人権へ配慮した校則について考えさせられるきっかけとなりました。

 外見に関する校則では「生徒が外見から誤解を受けないように」ということがよく言われています。例えば、半グレなどの反社会的勢力が登場する漫画を読んでいると、頭は金髪、耳にはピアス、腕には入れ墨というケースが多くあります。つまり、社会には外見と行動を結び付けるステレオタイプのイメージがあるようです。

 そのため、外見と行動が結び付いていない、人柄が良くて犯罪などに無縁な生徒でも、頭は金髪、耳にはピアス、腕には入れ墨をすれば、反社会的勢力の一員と思われるかもしれません。そして、外見から誤解を受け、本人が不利益を生じることがあるかもしれません。

 でも「外見から本人の印象を決めることを偏見と言うんだ!」というお叱りの声も聞こえてきそうです。程度の問題はありますが、頭髪や身支度などは個のアイデンティティや人権の問題であり、それを受け入れる社会の醸成が必要だとの意見も多く耳にします。

 実際に、身支度について社会の常識が急変したケースがあります。

 20年ほど前の漫画で、ある青年が面接試験で落ちる場面が描かれていました。その青年は幼少期に犯罪者から首を絞められた経験がありネクタイを締められなかったのです。ネクタイを着用しないことを「個性と思っていただければ…。」と述べる青年に「その個性は他で生かしてほしい。」と面接官は述べていました。ネクタイの着用が必然の時代もあったのです。

 ところが今はどうでしょう。クールビズの考え方が浸透し、夏季に行われる面接試験では、ほとんどの会場で半袖シャツにノーネクタイが普通なのではないでしょうか?このように、時代とともに身支度の常識が変化することはあり得る話なのです。

 外見と行動を結びつけるステレオタイプのイメージを考慮して、生徒に不利益を生じさせないようにするか。それとも、社会の変化に敏感に対応して校則を見直していくか。実は、学校が校則の見直しで及び腰になる理由は他にもあるのです。

 今の若い方には想像ができないかもしれません。30年ほど前までは全国の中学校や高等学校で校内暴力の嵐が吹き荒れているケースがありました。3階の窓から机や椅子が降ってくる、教師や生徒が凶器で傷つけられるといったことが日常茶飯事のようになっている学校が少なからずあったのです。

 私が若い頃に勤めていた学校でも、授業中に暴走族のバイクが校内を走り回り、同僚は生徒から凶器で傷つけられるなど、落ち着いた中学校では想像できないような事件がありました。校舎のガラスが何十枚と割られ、卒業式は多くのパトカーに囲まれながら行われたことを覚えています。

 そのような学校を正常化するためには長い年数と学校関係者の努力を必要としました。学校にはこのような経験があることから、校則の変更によって自由が増えることにより、学校や社会の秩序が崩れていくきっかけになるのではないかと心配する声が出るのです。

 しかし、今は、多くの学校で落ち着いた学校生活が送られています。そこで、時代の流れに合わせ、個のアイデンティティや人権を尊重することを重要視するべきだとの意見もあります。秩序の維持、個の尊重、どちらも生徒のことを考えての意見であり正論だと思います。

 正論であれば、その意見の方は強い正義感をもって持論を述べます。でも学校において正解は一つでないケースは多いものです。では、どうするか。
考えるのです。社会と学校が無理なく繋がるためにどうしたらよいか。安全は確保されるか。必要以上に権利を制限していないか。状況に応じて弾力的な運用にした方が良いか等々…。正解は出なくとも方向性は見出せます。

 私は、時代に合わせて校則を見直していくことには賛成です。ただ、その学校にいるすべての人を満足させることは難しく、作業には困難な面もあるでしょう。ですから、地域や学校の実態に応じて異なった校則ができるのは自然なことだと思います。

 いつの時代でも、生徒のことを考え、秩序ある社会の礎を学校が築いているという自負を持って校則を考えていくことは大切なことです。最近は、指導者側だけでなく、生徒などの若い世代の皆さんも真剣に向き合って考えられるようになってきました。素晴らしいことだと思います。ぜひ、このような取組が一人一人の成長に寄与することを願っています。  

#みらいの校則

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