【作家論#1】田中和生『絲山秋子論』
こんにちは、三太です。
先日、勤務校で避難訓練がありました。
コロナ禍の中、ずっと行われていなかったので、4年ぶりぐらいの開催でした。
整然と避難した後、みなが集まって校長の話を聞きました。
ここで校長が何を話すかはけっこう大事だなと改めて思いました。
適当に思いつきの精神論的なことを言うのか、しっかりと準備して災害に関する有益なことを伝えるのか。
もちろんうちの校長は後者を話してくれました。
話してくれたからこそ、改めて校長が話すことの重要性に思いをはせたのかもしれません。
さて、今回から新しいマガジン「作家論」を始めていきます。
更新頻度はそれほど多くはならないかもしれませんが、この「〇〇論」と書かれた論考や本がとても気になり、書くことにしました。
もちろん『吉田修一論』という本も読もうと思っていますが、他にも『三島由紀夫論』、『中上健次論』などいくつか気になっているものもあります。
どのようにその作家について述べられるのかということを読み解くことは、自分が吉田修一さんの作品を読むときにも生かせる視点だと思います。
では、早速やっていこうと思います。
初回となる今回は、『文學界』(2023年10月号)に掲載された田中和生さんの評論「絲山秋子論―連作作品集『神と黒蟹県』の地平」を読みます。
評論のあらすじ
この評論は「絲山秋子が描き出す作品世界が、二十年をかけてどんな場所に辿りつきつつあるのか」(p.93)という問いで論が展開されます。
この問いはサブタイトルともつながります。
この問いに対しては「絲山秋子の作品世界は二十一世紀的な文学作品としての限りない可能性を見出すものになりつつある」というのが結論となります。
少しこのままだと抽象的な感じではありますが、具体的にはこの評論を実際に読んでいただけるといいかと思います。
この結論を導くための方法としては、絲山秋子の作品を初期から辿りながら、そこで一貫して描かれてきたものが何かということと、それがどのように変わりつつあるかを分析するという方法がとられます。
評論のポイント
まず、そもそも当たり前のことなのですが、田中和生さんがとても博識です。
本評論で述べられる絲山秋子作品を取り上げられる順番に列挙すると
『神と黒蟹県』(p.93)
「第七障害」(p.96)
『逃亡くそたわけ』(p.96)
『ばかもの』(p.96)
『離陸』(p.96)
『海の仙人』(p.99)
『忘れられたワルツ』(p.101)
の7作です。
そして、絲山秋子作品以外にも
伊藤正一『黒部の山賊 アルプスの怪』(p.94)
志賀直哉『暗夜行路』(p.97)
ジャン・ジャック=ルソー『孤独な散歩者の夢想』(p.97)
庄野潤三『夕べの雲』(p.97)
リチャード・パワーズ『オーバーストーリー』(p.106)
などにも触れながら、論が展開されます。
当然ですが『神と黒蟹県』を読んでいるだけでなく、絲山秋子作品の多くに目配せがありますし、論を組み立てるときの引き出しも豊富です。
次に、絲山秋子作品の主題あるいは描かれてきたものの系譜がきちっと捉えられていることです。
私は、それは三つにまとめられると思います。
一つ目は「自立した個人の弱さと危うさ、あるいはその弱さと危うさから自立しきれない個人同士がすれ違いながらささえあう、その名づけようもない関係に孕まれる孤絶感と美しさ」(p.93)という主題。
二つ目は「圧倒的な自然が描かれてきた」という系譜。
三つめは「神的な存在が描かれてきた」という系譜。
これらも博識ということにつながると思うのですが、「これが主題だ!」「これが系譜だ!」と言えるだけの裏付けとなる読書量が鍵かと思いますし、筆者にはそれがあるんだと思います。
最後に必ずしも絲山秋子作品の全てに触れているわけではないということです。
評論でもデビュー作の「イッツ・オンリー・トーク」はその書名については言及があるのですが、中身については触れられません。
他にも本評論で触れられるのは7作ですが、絲山秋子作品はエッセイも含めると、30作近く出ています。
以上の3点ほどがポイントかなと考えました。
感想
やはりポイントにも書きましたが、「〇〇論」を書くためには、書くときに使う作品の何倍もの読書が必要だと感じました。
本評論では触れられていない作品についても、紙数が許すならもしかして筆者は触れたかったかもしれません。
そして本評論で特に重要なのは、絲山秋子作品に二十一世紀的な文学作品としての可能性を見出すために取り上げられるリチャード・パワーズ『オーバーストーリー』です。
この作品との共通点を取り上げることで、評論の最期の締めくくりは成り立っています。
吉田修一作品を論じるために何が生かせそうかを考えるのは難しいですが、少なくとも吉田修一作品だけではなく、その他の色んな書物への目配りが欠かせないのかなと思いました。
ただ、そこで何を選ぶのか、そしてどうつなげて論じるのかに書き手の個性あるいはセンスのようなものが浮かび上がるのかもしれません。
これだ!と思えるような作品との出会いができるよう、これからもコツコツと様々な本を手に取っていきたいと思います。
では、今回はここらへんで終わろうと思います。
次回いつ頃に作家論のマガジンを更新できるかは分かりませんが、少なくとも本棚には酒井信さんの『吉田修一論』と平野啓一郎さんの『三島由紀夫論』があるので、どちらかを読めたらいいなと思っています。
それでは、読んでいただき、ありがとうございました。