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闘病記その6

~いよいよ胃瘻造設か?!
治験あれこれで書き忘れたことがある。いつも行くとアンケートを取られた。裏表にびっしりと40~50くらい質問事項が書かれていた。病状について足、手、口(喋り方、食べ方)、頭(睡眠、物覚え)、精神面、人との関わり方等々、最初のうちは何の躊躇もなくすらすら書いていたのだが、ある時からこれって今からこうなりますよ、の予告を教えられてるってことじゃんと少しビビり始める。確かに5段階で、『そうは思わない、とか、当てはまらない』に○を付けていたのに、気付いたら『時々そう思う』に○が真ん中の3辺りに集まってきたことに愕然とする。
何の根拠もないけれど、私にはあてはまらないと思っていたから現実になってきた時のショックと認めたくない自分とがどうバランスを保って精神状態を安定させられるかが大変困難になってきた。
今に至ってもまだうそでしょ、悪い夢見てるんだよね、私がなんでこんな目に合わなきゃいけないの、なんか悪いことした?と悪あがきしています。受診するたびに低くなっていく握力や肺活量の値を目の前にして、嫌でも認めなければならない残酷な日でもあります。まあそれでも藁をも掴む気持ちで出来ることは何でもしてやりたいという主人の想いに支えられ遠路大阪まで、一年間休むことなく連れて行ってもらいました。本当に感謝してもしきれない、何か気持ちを形にしたいと思っても手も足も出ない。(文字通り手も足も動かない)ので。苦笑

さて見出しとはえらく離れて、横道に行ってしまいました。
本題にもどります。いきなりですが、2021年の話になります。そのころ私は嚥下が困難になってきていました。錠剤の薬を飲み込めないで何度飲んでも水だけ飲み込んで薬は口の中に残ってしまう、5回も6回も挑戦してものめないことがあると情けなくて、涙が流れてくる。薬をのむことが恐怖の時間になり、たった5錠の薬を飲むのに、どんだけの時間を費やしたことか。特に寝る前に飲むのは主人に飲ませてもらうので、私が飲み終えないと主人も寝られないから余計に焦って変なところに引っかかって、泣きながら飲んでました。
忘れもしない2021年11月9日に、家でゼリーを誤嚥して救急車で医療センターに運ばれて入院することに。ずっと飲み込みに不安がありました。とうとう来るべき時が来たのか、と腹をくくりました。
主人がセンターの先生と話をすると、「家での生活のためには、胃ろうが必要です。作れるタイミングもあるので、今の状態なら造れますので、された方がいいと思います。造っておけば安心ですし、今までのように口からも食べられます。使われなくてもいいですから」と熱心に勧められたらしいです。そしてそれを受けて主人がすぐに動き出します。あっという間に手術日が15日と決まりました。12日に鳥取大学医学部付属病院に転院。私はまるでベルトコンベアーに乗せられて右から左へ。頸に行き先の書いたタグをつけられ、ちょこんと座らせられ、運ばれる、そんな何が起きてるかわからない状態でした。
主人がこんなに急いだわけは二つあります。
ひとつは、この時主人は自分が主催者の学会を米子で開催中でした。私のことをかまってる暇などなかったのにとにかく病院にいてくれたら安心して動ける、ということから駆け回って段取りしてくれました。大変な迷惑をかけてしまい、内助の功どころか、足を引っ張ってしまいました。
もう一つの理由が大本命。何話かで書きましたがこの時私は商工会議所女性会の会長でした。会長4年目の最後の大仕事、60周年記念式典や祝賀会を開催することになっていました。一年前から実行委員会を立ち上げ、記念講演には女優の紺野美沙子さんにお願いしていました。なんとこの大切な日が11月26日と迫っていました。逆算して手術日が決まったそうです。そして15日に胃ろう造設手術を受けました。経過は順調で、食べるリハビリもありました。25日から外泊許可をもらい、久々にシャバの空気を吸いました。(笑)
そして祝賀会当日、何があっても連れて行ってやる、と言ってくれていた主人とヘルパーさんとたまたま帰省していた妹とどこぞの昔ばなしじゃないけれど三人のお供を連れて、おしゃれして行きました。最初に集合写真を撮ることになっていました。負担のないように、皆さんが並ばれてから私は最後に定位置に座ればいいようになっていました。会場に入ると一斉に皆さんの目がこちらにむけられました。ワーッと歓声が上がり、私も胸が熱くなり泣きそうになるのを必死でこらえました。涙ぐんでいる方もおられました。この日を迎えられ、参加できたことがとてもうれしく会長としての最後のご奉公ができて、本当に会員の皆さんお一人お一人にお礼を言って回りたいくらいでした。
講演では、女優の紺野美沙子さんが私のために朗読してくださったこと。最後の5分を変更されて朗読させてもらいますと言われたらしい。そして私を探すような感じで、会長おられますか?と言われたとか。
私がなぜこんな人から聞いたような言い方をするのかは、残念なことにその場にい合わせることができなかったからです。ちょっと前に痰がからみそうになって、そのあとの花束贈呈をすることになっていたので早めに吸引してもらうために主人とヘルパーさんと会場から出てた時のことだつたのです。思いのほか痰がなかなかすっきりしなくて焦れば焦るほど上手くいかず会場に戻ってこないのを心配して、清水さんが様子を見に来てくれました。「この時のために頑張つてきたんだから何が何でも出るよ」といって時間を引き延ばしてくれていました。
会場に入ると何人もの人が涙を拭いておられて異様な雰囲気の中花束贈呈を。山口さんがお礼の言葉を述べられましたが、めったに泣かない山口さんが涙声になられて、どうしたの?って感じの中で、花束を山口さんに手を添

えてもらって渡しました。無事に大役を果たせてほっとしました。終わつたらみんなが「あれは美穂子さんのために読みなったんだよ」と言われたので謎が解けましたが、聞けば聞くほど凄く残念で仕方ありませんでした。お礼

のメールでちょっとそのことに触れたら何と読まれた詩を送ってくださいました。それを下手くそな(ごめんなさい)主人に読んでもらったら、涙が止まらないのです。美沙子さんの朗読を聞いてたらきっと大泣きして、せっかくの祝賀会の雰囲気を台無しにしてたかも、と考えただけでも冷や汗ものでした。詩は最後に載せておきます。
この日は式典と記念講演会が終わると、祝賀会は失礼して、病院へ戻りました。帰ると病棟の看護師さんたちが、「お帰りなさい。無事に終わられてよかったですね。お疲れ様でした。ゆっくり休んでくださいね。」と何人からも声をかけてもらいました。あー、終わったんだ、としみじみと感慨無量の気持ちになりました。
そんな中、主人はまたも新たな難問題で頭を悩ましていました。私はそんなこととは知る由もなく、いつ退院できるかなあ、と考えてました。24時間体制で見守ってもらえるという話になりましたが、夜勤を引き受けてくれる事業所がなく、なかなか退院予定が決まりませんでした。身体の状態はいいのに、足止めを食らっている状態でした。年末までには帰れるだろうか?お正月は我が家で迎えたい。息子の婚約者も来てくれる予定になっていました。果たして、私の退院はいつに?年内に帰れるのか、美穂子の運はいかに?
つづく  #紺野美沙子 #松江商工会議所女性会 #60周年 #難病  
#鳥取大学医学部附属病院 #きらめく星座 #井上ひさし  

井上ひさし作「きらめく星座」よりの抜粋です
「この宇宙には四千億もの太陽が、星があると申します。 それぞれの星が平均十個の惑星を引き連れてゐるとすると惑星の数は約四兆。 その四兆の惑星のなかに、この地球のやうに、ほどのよい気温と豊かな水に恵まれた惑星はいくつあるでせう。 たぶんいくつもないでせう。 だからこの宇宙に地球のやうな水惑星があること自体が奇蹟なのです。 水惑星だからといつてかならず生命が発生するとはかぎりません。 ところが地球にあるとき小さな生命が誕生しました。 これも奇蹟です。 その小さな生命が数かぎりない試練を経て人間にまで至ったのも奇蹟の連続です。 そしてその人間のなかにあなたがゐるといふのも奇蹟です。 かうして何億何兆もの奇蹟が積み重なった結果、あなたもわたしもいま、ここにかうしてゐるのです。 わたしたちがゐる、いま生きてゐるといふだけでもうそれは奇蹟の中の奇蹟なのです。 かうして話をしたり、だれかと恋だの喧嘩だのをすること、それもそのひとつひとつが奇蹟なのです。 人間は奇蹟そのもの。 人間の一挙手一投足も奇蹟そのもの。だから人間は生きなければなりません」



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