忖度と映画の間で

つい先ほど、「空母いぶき」という映画を見たので、この映画の感想をアップしようと思い、ウィキで映画の基礎情報を調べてみました。

そこでこの映画の原作漫画の基本設定が大幅に(ウルトラ級に)映画用に脚色されていたことを知り、愕然としました。私は原作漫画を全く知らないので、原作漫画の基本設定も映画と同様なのだろうと、勝手に思い込んでいたのです。

正直、この改変のあまりの離れ業にショックを受けて、鑑賞後、映画に対して抱いていた(そこそこの)好印象も吹き飛んでしまいました。なので、今回は「空母いぶき」の感想ではなく、私が受けたショックの内容について書こうと思います。

原作と映画の両方を読んでいる、または見ている方にはとっくに自明のことでしょうが、「空母いぶき」で日本の領海に攻め込んでくるのは、東亜連邦という架空の国家であり、建国3年の国の軍隊です。一方、原作で同じく攻めてくるのは中国の人民解放軍です。

・・私がショックを受けるのも無理はないのではないでしょうか。世界第2位の経済・軍事大国が建国3年の発展途上国に「しれっと」入れ替わったのですから。
勿論、この映画の製作者や監督は日本の仮想敵国を中国から東亜連邦に入れ替えても、原作が伝えようとした「敗戦後の日本社会が築き上げた平和国家という理念(フィクション)が問い正される」というテーマを描くことは可能であると判断して、「空母いぶき」を製作したのだと思うし、また原作者が映画化を承諾したのも、おそらくそういう事情だろうと推測します。

しかし、この映画の製作者や監督は致命的な勘違いをしていると思います。

確かに映画の中で描かれる戦争は架空の物語です。しかし、たとえフィクションであっても、物語で現実に存在する国家間の戦争を描く場合、その戦争は歴史的な意義を帯びると私は考えます。何故なら、自国の軍隊とは自国民の代表であり、その代表という意識は自国の固有の歴史と切り離すことはできないからです。

つまり日本という国家の軍隊が他国の軍隊と交戦するなら、その対戦国は固有の名前と固有の歴史を持っていなくてはならない。そうした固有の代表意識と歴史観とが武力で互いに衝突するのが、「戦争」だと思うのです。

しかし、「空母いぶき」に描かれる(というか描かれない)東亜連邦は名前も歴史も持たない国です。勿論、それはこの映画の製作サイドが意図的にそのような設定を採用しています。つまり彼らは文字通りの「仮想敵」でしかなく、ならばこの映画で描かれた戦争は、すべてが訓練でしかありません。
(映画の中で度々、海上自衛隊員が「これは訓練ではない」と警告されるに   も関わらず)

私には製作サイドが何故このような原作の基本設定の変更をしたのか、正確な理由は分かりません。

ただ、言えることは映画で中国と日本の戦争を描くことが許されないなら、サッカーや卓球で中国と対戦することも許されないはずだし、逆に日本国内の漫画で何の問題もなく許されたことが、日本国内を主な市場とした映画で許されないという事情が、理解不能です。むしろ現在では映画よりも漫画の方が中国人に読まれる可能性は高いのですから。

いずれにせよ、製作サイドによるこうした不特定多数への忖度が一本の映画製作を歪める現状がまかり通るようでは、実際に「東亜連邦」が日本へ攻め込んできたとき、日本の政府が自衛隊員と国民とを守れるのかどうか、甚だ
疑問ではありますね。


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