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トニー滝谷

珍しく、一切何の先入観もない状態で映画を見た。

原作である村上春樹の短編小説を読んだことがなかったし、この映画の
物語をあらかじめネットで調べることもしなかったからだ。あらかじめ
知っていたのは、出演者がイッセー尾形と宮沢りえだということだけ。

実際に見てみると、これは映画というよりは小説と映画を融合させたアート
作品というのが正確だと思った。もちろん小説を映像化しているのだから、
ごく一般的には映画と断定しても問題ないのだけど、市川準の演出は意図的に小説をドラマ化(演劇化)することを避けている。

まず映画の最初から最後まで、西島秀俊による原作の朗読がわりと頻繁に挿入される(この朗読はかなり拙い印象を与えるが、たぶんわざとそういう風に演じてもらったのだろう)。
さらにイッセー尾形と宮沢りえがそれぞれ演技の最中に思い出したかのように、原作のほんの一部を(台詞としてでなく)観客に向けて朗読する。

こうした演出のため、観客は原作小説と映画のドラマとの間を行ったり来たりしながら、ある孤独な中年男の人生を見つめていくことになる。

物語は気まぐれな父親から(日本人としては)奇妙な名前を授けられた一人の男性の孤独と自意識を描いている。主人公の尾形は仕事で知り合った宮沢と結婚し、後に死別し、さらに宮沢が演じる宮沢とよく似た女性と出会うのだが、この作品で宮沢が演じた女性たちは二人とも現実の女性ではない。

あくまでも尾形が演じたトニー滝谷の孤独と強烈な自意識が生み出した理想的な女性のイメージとして作品に存在している。この作品の宮沢りえが信じられないほど美しいのは、彼女の美貌のせいだけではなく、夢の中にいるような女性としてトニーを訪れるからだ。

私は本来、こうした自意識過剰な物語をあまり好まないが、20年前の宮沢りえが問答無用に美しいことと、おそらくは生来の発達障害だと思われる
トニーの孤独や自意識に無意識に共感してしまったこと、さらに76分と極端に短い上映時間もあり、この奇妙な映画を拒絶できなかった。

作品のラストで、トニーは一度会っただけの亡き妻によく似た女性に電話をかける。彼女が電話に出た途端、トニーは自ら電話を切る。

この原作にはないラストのエピソードだけが、この作品で唯一の現実だ。この後トニーが現実の愛を模索するのか、それとも絶望をさらに深めていくのか。それは私にもわからない。

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