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夜明けのすべて

私が三宅唱監督の映画を見るのは、「PLAYBACK」以来、これで2本目になる。たまたまだが同監督のデビュー作と最新作のみを見たことになる(正確に言うと長編デビュー作は「ろくでなし」だが、この映画はアマチュ  ア時代に製作されている)。

以前に見た「PLAYBACK」もそうだったが、この「夜明けのすべて」もまた語るのが難しい映画だ。決して物語は難解ではない。むしろ映画で語られる物語は極めて単純であり、平凡である。あまりにも平凡なので、お世辞にも脚本が面白いとは言い難い。
 
 しかし、この平凡極まる精神障碍者の男女ふたりの物語を三宅は平凡には語らない。まず出来るだけ多くを語ろうとはしない。

パニック障害を抱える主人公の青年がアパートで恋人の女性からロンドンへの転勤を告げられる場面が最たるものだと思うが、観客はこの後にふたりがどうなったのか、またこれまでのふたりの関係がどんなものだったのか、などを全く知らされない。たぶん、互いに話し合って別れたのだと思うが、その「別れの情景」を三宅は一切描写しない。
 
 おそらく監督にしてみれば「これは男女の恋愛の話じゃないから」ということなのだろう。実際にこの映画では男女間の三角関係はおろか、主役の男女の間にも恋愛感情は全く存在しない。ただひたすら、映画に登場するすべての人々の間で善意と友情だけが的確にスケッチされていく。

主役の男女が障碍者であることも含めて、こうした善意と助け合いのリレー映画は一歩間違えれば醜悪な正義の押し付け映画にしかならない。しかし、三宅は一歩も間違わない。少なくとも私には間違いは見えなかった。
 
 その結果、「夜明けのすべて」はあまりにも正しく、あまりにも美しい人々を映し出す映像となる。上白石萌音が幾度となく月経前症候群によって引き起こされる苛立ちと感情の爆発をリアルに観客に見せつけても、この映画の強力な透明感を崩壊させることはない。

あえて意図的に通俗的なドラマを排除することで「夜明けのすべて」は映画としての完成度を高めている。しかし、限りなく通俗を排除した後のフィルムには、何の矛盾もない透明な、心優しい風景だけが残される。
 
 このような理由で私はこの「愛すべき映画」をそれほど愛することはできない。ちょうど映画の中で青年が同僚の女性を「それほど愛していなかった」ように見えるように。それでも「夜明けのすべて」は監督の才能がフィルムに露呈しているという意味で、非常によく出来ている。
とりあえず今年の日本映画のトップ5に私はランクインさせるだろう。
 
 ひとつだけこの映画の演出で私が理解できなかったのは、プロローグとエピローグにそれぞれ主役の男女のモノローグを入れたことだ(しかも上白石のモノローグは冒頭から10分くらい続く)。映画においては人物のモノローグの内容は映像と台詞で処理するというのが(私の思う)鉄則であり、この映画でもそれは可能だったと思う。
 

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