見出し画像

その後の深作欣二 vol.1

今回から不定期で深作欣二の中期以降の作品を論じていこうと思う。
タイトルの「その後」とは東映実録やくざ路線が終了した、その後という意味である。まず第1弾は深作が初めて監督した時代劇「柳生一族の陰謀」。


私はこの映画をテレビで4回ほど、映画館で1回見ている。映画館のスクリーンでこの映画のダイナミズムを体感したときは、「七人の侍」や「十三人の刺客」に匹敵する時代劇大作の傑作だと感じた。

今回、テレビの画面で見てみると、確かに面白い映画だが傑作だとは思わなかった。深作欣二の集団抗争活劇はスクリーンで体感するのとテレビ画面で視聴するのとでは、面白さの印象が大分変るということは書いておきたい。
 
 映画館と違ってテレビで映画を見るときには、かなり冷静に映画を視聴している。冷静に見ると作品のもつ粗が目に付くようになる。この映画の場合だと、まず深作を含めた3人で書いたものとは思えないほど脚本は杜撰だ。

(ラストの柳生十兵衛による将軍家光の首切りはこうした杜撰な脚本を象徴する場面だと言っていい) 
 
ホンだけでなく撮影もダメで、音楽はテレビの時代劇シリーズ並みのクオリティだ。豪華な俳優たちは歌舞伎調の大芝居を披露する萬屋錦之助をはじめとして、ことごとく血管の切れそうな直情型の演技を見せつける。
 
 ・・普通はここまでダメな要素が揃えば、映画は空中分解する。しかし、それでもこの映画は面白い。

深作の演出が生み出すスピードとダイナミズムとが、映画が空中分解する暇を与えないで、前へ前へと進んでいくからだ。この集団抗争活劇における魔術的な手腕は、黒澤明にも工藤栄一にもない、深作欣二にだけ与えられた才能だと言っていいと思う。
 
 後の「魔界転生」や「里見八犬伝」では物語の構成がより勧善懲悪=ファンタシーになったせいか、深作の魔術的な手腕をもってしても映画の面白さは最後まで見られるレベルには達しなかった。しかし「仁義なき戦い」の世界観を徳川幕府の治世に移植したこの映画では、十兵衛を演じた千葉真一の見事な体技と一体となって、深作の才能が映画を躍動させている。

 ただし、杜撰な脚本に話を戻せば、そもそも幕府の剣術指南役という重職に就く男の長男が「社会的弱者に共感を寄せる善人である」という設定に相当に無理がある。だから深作が柳生の手の者による根来衆の虐殺をどれだけ丹念に描いても、千葉が虐殺後の根来衆の里を見つけて絶望的な嘆きを演じても、どこか心に響かない。

十兵衛は「仁義なき戦い」の広能とは違い、そもそも権力から虐げられた側の人間ではないからだ。

 仮にこれを深作欣二の映画キャリアにおける乖離と呼ぶならば、この「乖離」は後に1980年代全般において深作の才能を抑圧し、封じ込めることになる。深作がこの乖離状態を完全に脱却するには、遺作となる「バトル・ロワイアル」まで22年も待たねばならなかった。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?