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必要最低限を超えた先に…「ソバニイルヨ」書評・感想

おはようございます。本日は喜多川泰さん著書の「ソバニイルヨ」を取り上げたいとおもいます。

喜多川さんの本は「運転者」を取り上げて以来2作目です。

主人公は勉強が嫌いで、周りばかり気にして過ごしている中学生の隼人。多感な思春期、勉強がんばるなんてカッコ悪い、悪い友だちとつるんでは母親に心配ばかりかけて過ごしていました。些細なことがきっかけでその友だちとのイザコザがあったある日、自分の部屋へ入るとそこには見慣れぬ大きな物体がありました。それは隼人の父親が彼のために作った人工知能ロボット・ユージでした。ユージは人生で大切なことを教えるためにプログラムされたていたのです。

こちらも運転者に負けず劣らずの名作であると思います。隼人の成長を通して学ぶ事が多くあります。本書から学んだことを、ネタバレにならないようにまとめていきたいと思います。


1.期待シナイコト

相手に何をどこまで期待するのかは人によって違います。あらゆる人に「こうしてくれ」と期待をする人のベースには、「自分ならこうするのに」という思いがあります。それが無意識のうちに「その通りに動け!」という相手への期待になります。

しかし、他人である相手は思うように動くはずがありません。そういう人は期待が大きいが故にそのギャップに苦しみ、あらゆることにイライラをつのらせ、結局は幸せを遠ざけます。他人に期待するのは、自分の幸せを他人に頼る行為と言えます。

相手に期待シナイとは決して悪い意味ではありません。そういう人は自分の一日の幸せは誰かに頼るのではなく自分で創るものであると知っているのです。

他人に委ねている限り、一日の良し悪しを自分で決めることは出来ません。期待シナイことではじめて一日を良い日にすることがムズカシクなくなるのです。

世の中自分に起こるあらゆる不幸を誰かのせいにしている人でイッパイ。誰かのせいにせず自分の責任だと思うところからはじめてみる。誰かを「カエル」より自分が「カワル」方が幸せに近いのです。

2.必要最低限を超えたところに…

勉強をしないと決めるのも自由です。けれど、しないことで起こる事も自己責任で受け入れなければなりません。しない事で起こるリスクを知らないまま勉強をしないと決めることは非常に怖いことです。

勉強することで手に入るもの、しないことで失うもの、危険を実際に経験したうえで自分で判断していけば良い。ただし、それを知るためには必要最低限のところまでやらなければ分からないのです。

勉強しても将来の役に立つかどうかは分からない。そのとおりです。長い年月かけて同じ時間勉強に費やしてもそれが浪費なってしまう人と投資として自分の財産に変える人がいます。

どうせ同じ時間をかけるなら投資になるようなやり方を選びたい。そのための一丁目一番地は必要最低限までやることなのです。何をやるにしても必要最低限を超えたところの時間が投資になり将来の財産になります。

この必要最低限を超えたところには自分の意志が生まれています。そこに日々の喜びや幸せや楽しみ、もっと言えば人生の使命ともいえるものが転がっているのです。強制ではなく自分の意志で、この違いは驚くほど大きいのです。

感想

教育の最終目標は自立であると以前のnoteでも取り上げました。

中学生という年代はちょうど子どもから大人に移行(自立)する過渡期。他者の中での自分というのを意識し始めるころだと思います。自分でコントロールができることと、自分の力が及ばないところの境界線を少しずつ学んでいく時期とも思います。

必要最低限というのは捉え方によっては様々な見方ができると思います。「親や先生、周りの人からとやかく言われないぐらい?」このように捉えていてはまだ他者に頼った生き方であり、本来の自立とは言えないでしょう。

はじめは子どもが中学生くらいになった時にこんな事が伝えられれば良いなあと思いながら読み進めていましたが、ふと自分自身の行いも内省していることに気がつきます。「課題の分離」や「原因自分論」にも通じる考えであると感じました。

気になった方は是非手にとって呼んでみて下さい。

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よろしければご覧ください。



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