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アカデミー賞2作品 『オッペンハイマー』『ゴジラ-1.0』を語る      祭り上げられる「仮想敵」

※病気による長期投稿休止後なので、話題が古くてすみません。
今後、続々と論評を投稿します。
 
 米アカデミー賞で作品賞などを受けた『オッペンハイマー』と視覚効果賞の日本の『ゴジラ-1.0』がロングラン上映を続ける。奇しくも両作品とも核兵器に関連する内容だが、それぞれ戦争と平和について論議の重要性を感じさせる。“ツッコミどころ”が多いのが見ものだ。当たり前だが勝手な私の感想なので当然に独断である。またいつものように超長文。
 
 
 『オッペンハイマー』は第2次大戦中、米国で核開発をリードし「原爆の父」と讃えられた科学者の評伝だ。後先考えず、「純粋に」兵器生産という技術研究に邁進した挙句、広島に投下して無辜の市民多数の命を奪った凄惨な結果に愕然とする主人公。だがそれを「良心の呵責による苦悩」などと美化しても、一瞬にして殺害された多くの被爆犠牲者の苦難とは比較するまでもない。
 
 一方で、「悲劇の主人公」とあながち持ち上げるでもなく、全く共感も同情さえも抱けず無自覚で単純な科学者の愚かな罪と突き放した見方もできるという映画の作りにはなっており、今なお「原爆が戦争を終わらせた」神話がはびこるかの国と日本とでは観客の反応が異なると思わせる。
 
 また戦争遂行に総力を挙げ、戦後も対ソ連の冷戦でそれを引きずる当時の米国の状況、内部に根強い原爆使用反対論もあった事実や戦後に主人公もやり玉に挙がったレッドパージの暴虐を描いているのは興味深い。
 
 
 広島、長崎の悲惨な結果は映画には描かれない。それを知っている人(筆者も含めて)は、広島への攻撃「成功」に喝采するシーンに胸が詰まる。ただ、オッペンハイマーの評伝でそれを描かない選択はあり得るだろうし、そのシーンで裏目に想起することは十分可能(喝采をそのまま受け入れるのはよほどの●●だろう)だ。
 少なくともある意味で愚かとも言えるオッペンハイマーを礼賛せず、「悲劇」として祭り上げもせず、核開発批判も含めて歴史への評価を織り込んでいろんな見方をしてほしい、というノーラン監督の意図は見て取れる。
(あくまで状況によるが、一作品に様々な視点を盛り込むのは困難だ。例えば戦死や空襲など日本人の戦争被害を描いた数々の日本映画で、その同じ日本人がアジア諸国民の虐殺に手を染めたことを描く作品は少ない)
 
 
 『オッペンハイマー』で主人公らが原爆開発の動機、拠り所としたのが、「もしもナチスドイツが先に作って使えば」との理屈だったことは大事なポイントだ。これは現代も核兵器禁止に反対する国々の「核抑止論」と通底する。ドイツが降伏、日本も惨敗して降伏寸前だったにもかかわらず対ソ連も意識して原爆投下が強行された歴史が物語るように、不信と疑心暗鬼を背景にした兵器開発はそれ自体が他国を巻き込んだ軍拡を招く。
 
 
 一方、終戦直後の日本を舞台にした『ゴジラ-1.0』は、その面である種の危惧も感じさせる。強烈な反核反戦映画の第1作『ゴジラ』(1954年)を意識して、ゴジラの出自を核実験に設定したりしているようだが、栄えある第1作のような反核反戦メッセージはかなり希薄で、「抗え!」という宣伝キャッチフレーズが象徴するように、むしろ強力な敵たる怪物と戦い、やっつけるという姿勢が中心軸だ。
 
 もちろん、このキャッチフレーズの前には「生きて」というのが付いており、劇中でも元特攻兵で逃げ延びた主人公らが、「戦争で命を落とすことは良くない」とのメッセージを繰り返すが、そりゃあ当たり前だろう。命を賭して戦い、殉死するストーリーなら単なる特攻礼賛だ(そういう映画も結構あるが)。
 
 戦争からの復員者である登場人物が「先の戦争で出来なかったことをするんだ!」との趣旨を叫ぶのが危うい。「今度こそ勝ってやる!」と取れないこともない。
 「もし怪獣が攻めて来たらどうするんだ!?」との理屈で、皆で力を合わせて戦うことを賛美する作りだが、現実には(多分)ゴジラは来ないわけで、すり替えによって怪物に仮託した「仮想敵」への備えを強調すれば、ある種の「抑止論」への許容が刷り込まれる危険性もある。
 
 東京湾でのゴジラと主人公らの船団との“決戦”というクライマックスシーンは、「さあ、戦うぞ!」と、アドレナリンとドーパミンが同時にどっと出るように見事に演出されている。だがそこで、あの「ゴジラのテーマ」が華々しく流れるのは、まるで軍艦マーチのように聞こえる。第1作で反核の願いを込め、原爆の恐怖を示すように作曲した伊福部昭のあの曲が変質したように聞こえた。
 
 仮想がゴジラだから笑って観ていられるが、例えばこの敵を現実の国、例えば北朝鮮に設定した映画ならどうだろう。きな臭いと感じる観客も多いだろう。戦争や戦うことが大好きそうなアメリカでは、ナチスドイツやソ連、ベトナムといった実際の国を実名で引っ張り出し、現実とは違うストーリーにして戦いまくる映画も多いが、日本ではそこまでの仮想はまだ少ない。そういうのを「こじつけ」という(後述)。
 
 つまり、前提にあり得ない(多分)ゴジラの襲撃という仮想を使って、現実世界での「抗え」「戦え」を主張、美化するのは、ある意味ですり替えである。またこの映画でも、「愛する人々の命を守るために戦う」というスタンスが押し出されてはいるが、これとて歴史上(現代でも)戦争遂行で必ず使われるフレーズ、つまり危険な陥穽だ。そんなに簡単にその言葉を吐いてもらっては困る。
 
 映画中でも「命の重み」を言うが、主要登場人物たちの周辺の人たちは命を救われるのに、ゴジラ襲来で踏みつぶされたり船を転覆されたりして多くの人命が失われる場面は割とドライなスペクタクルシーンとして描かれる。
(ちなみに、ゴジラにあんなに家を壊された多くの人は、すぐに生活に困るだろうが、どうするんだろうか? 以前、「ガメラ」の映画で襲来による被災者のために仮設住宅が作られる場面があり、そのリアリティに唸ったものだが)
 
 つまりは、ネタニヤフやゼレンスキーのようにひたすら戦いだけを呼びかけるのではなく、その前、戦争が起きる前に、歴史的経過を踏まえ、現実の世界で戦いを回避し、平和を実現する努力、その呼びかけこそが重要ではないか。(ロシアの侵略が悪なのは言わずもがなの論外)
 
 確かに一つの映画作品に多くの要素を全て詰め込むことは無理で、『ゴジラ-1.0』の方の監督はそんなことまで考えてはいないだろう。まあ、映画で「敵」に仮想した相手がゴジラなら停戦交渉も和平交渉もできないだろう(多分)し、受賞したのが「視覚効果賞」のただのエンタテイメントと言えばそれまでだが、もうちょっと深読みしても面白いだろう。
 
 
 長文ついでに、ちなみに前述の「こじつけ」だが、アメリカ映画にはその大きな流れがある。強力あるいは極悪非道な「敵」を設定し、それを徹底的に殲滅して快哉を叫ぶ仕組みだ。「こじつけ」というのは、話を盛るために「敵」を必要以上に残虐に設定し、これなら有無を言わさず皆殺しにしても当然だと思わせる操作。もう一つは、現実の「敵」を別のものに仮想する手法だ。
 
 前者は戦前戦後の西部劇における「インディアン」との戦いが典型。西部開拓史は彼ら先住民への侵略史に他ならないにもかかわらず、インド人でもないのに「インディアン」との蔑称を付けて殺戮を繰り返す映画は枚挙にいとまがない。
 映画上でも人格を与えられず、牧場や駅馬車を取り囲む彼らをまるで虫けらのように、シューティングゲームのごとく銃で撃ち殺しまくるシーンを見て、高校時代、「この人らは人間やん。それぞれに家族もいてるのに」と胸が悪くなった思い出がある。
 
 その後も、「敵」は次々作られる。残酷なドイツ兵(必ずしもナチではなくただの動員兵も)に始まり、戦後は「共産主義者」、アメリカの侵略に抗して闘うベトナム解放戦線の人たち、そして「アラブゲリラ」「テロリスト組織」等々。
 
 後者は例えば1950年代に反ソ連でレッドパージが吹き荒れた時代、言うところの「赤」をまるで「うつる」伝染病のように描いたり、宇宙人来襲になぞらえた映画がたくさんあった。あまりの馬鹿々々しさは噴飯物だったが、さすがに現実の「敵」を実名で出すのがはばかられたのか、あるいは平気で殺戮するためなのか、「エイリアン」や「ゾンビ」までが動員され続けている。(ただし素晴しいエイリアン、ゾンビ映画ももちろん存在する)
 
 相手を理解(同意ではない)する能力がないから「宇宙人」のように「理解不能」とひとくくりにするのだろうか。どうしても「敵」がいないとやっていけないアメリカの悲しい、でも腐り切った性だろうか。オッペンハイマーの周囲もそういう者たちだった。『ゴジラ-1.0』は、ある面ではこの系譜につながると見えなくもなく、米国では賛美されるのかも知れない。
 
 
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