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近未来の話をしよう-17

高学歴の目的は大企業、医者、官公庁への就職。かつての、いや現在も日本の若者たちはそういう夢(?)を持っていた。

学生ベンチャーを期待する政府や社会だけれど、それを送り出したりサポートするための受け皿は用意されていない。

以前から同じようなことを言っているけれど、若者のスタートアップを支えるのは経営を熟知したベテラン層ではないかと思っている。世代の分断はどんどん進んでいるけれど、まず、壮年の経営感覚を持った経験者がもう一度学習することで、若い世代と新しいビジネスを共創できるのではないかと考える。

若い世代と現役経営者あるいはベテラン経験者をつなぐのは「教育」ではないかと思う。お互いにお互いから学習できることが沢山あるのに、まず「学校」や官公庁はそういう場を提供出来ていない。

我々が自主的にそういう場を作ってゆくしかないのじゃないかと最近思うようになった。

コワーキングが沢山生まれるよりも、自由に幅広い世代が集まることができる出入り自由な「場」作りが必要だと思っている。

会社組織や企業へのインターンではなく相互教育の場に多様なインターンが参加する時代になっているのではないだろうか?もうすでにインターンという呼び方が古いのかもしれない。

学習の場は「学校」という閉じられた空間で全員が同じ統率の取れた教育を受けること自体が必要なくなっている。自分に必要で興味のある分野だけを選択し習得すれば良い。自分自身のスキルが拡大すれば必要な分野も拡大し、深度も深くなる。

何に価値を見出すのかは、それぞれ個人個人が決めれば良い。

「生産性」という言葉は、今は「資本」が滞留したり大量に交換したりする場にあると考えられやすいし、資本の滞留や交換が行われない「場」には「生産性」がないと思われがちだけれど、そこに「必要性」という言葉を加えると「生産性」の意味は随分と変わる。

例えば「情報」には価値があると良く言われるけれども「情報」そのものを放置しても「資本」は生まれないけれど、「情報」を利用して物事を有利に動かしたり、未来を予測してそこに「資本」を投下することでさらなる「資本」を生み出すことで、そこに高い「生産性」が生まれる。

ただし「情報」そのものは食べることはできないし、「情報」が生きることや生活することに必ずしも必要であるとは限らない。つまり別の側面から見ると「情報」には「生産性」はないことになる。

現在の世の中では「情報」の価値はとんでもなく高く、素晴らしい「生産性」を生み出している。

しかし、人類が何らかの理由で「電力」を失って「情報伝達」の手段がごく僅かに限られてしまうと「情報」の価値は下がり、生きるために最低限必要な基本的な「情報」のみが価値を持つようになる。「生産性」は低くなって必要最低限の「生産性」は「食料を確保する」ことに絞られてゆく。

そのことを忘れて、ただ「生産性」を「資本」を確保することだけを目的に動いている経済は、実はとても脆弱であるということを忘れてはならない。

世代間の情報の断裂も、実はその世代が生きてきた「生産性」と「資本」の質の違いから起こるのではないかと考える。古い「生産性」と古い「資本」、新しい「生産性」と新しい「資本」にはもちろん関連性がある。

もしも「情報」に普遍的な価値があるとすれば、その二つの違いを結ぶことが出来るということではないかと考える。

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