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新世代に託す-7

Z世代がスタートアップを興したとか、
優秀な若者の話題がとても沢山取り上げている。
でもそれって、実態を反映しているんだろうか?

●何が才能を潰すのか?

人は生まれた時から打たれ強く作られるのではない。
自分の持っている感性や自我を最初からコントロールできるわけじゃない。
「競走しなさい」
「それがあなたのためなのだから」
自分のすぐ近くにいて、自分を守ってくれる人に頼るしかない弱い存在を
親はコントロールしようとする。
好奇心の塊で落ち着きなく周りにある全てに手を伸ばし、見て、触れて確かめる。
最初は分別などない。だから本能で親に従う。
自我が芽生えて、少しずつ独立できる力を身につけ始める。
だから、親は子を少しずつコントロール出来なくなってゆく。
それでもコントロールしようとする親はいつしか自分を頼る子供という存在を自分自身の自由になる所有物として手放したくなくなる。
それを「依存」であると気が付かないままに。

「英才教育」と良く言うけれど「教育」そのものが「教え」「育てる」ものであるなら、教える側に「教える力」がなくては育てることはできない。
学習とは自らが「学ぶ」ことであって「教えられた」ことのみを身につけることではない。
「才能」とは勉強ができることではなくて
「自分自身が欲しいと思った力を身につける力」なのじゃないかな?
自分が欲しいものではなくて嫌いなものでも身につけさせるのはただの「防御」のためであって、英才教育を受けさせる親は自分自身の「防御」のために子供に能力を与えようとしているように見える。
自分にないものを子供が身につけることによって、いかにもその子供の能力を自分の所有物であるかのように振る舞う。
自慢の子供というのは「自分が自慢」するのであって子供が自分で自慢をするのではない。

●誰のために学習するのか?

子供が興味を持ったことをさせてあげる努力が可能であればさせてあげれば良い。
例えば「ピアノが習いたい」「バレエが踊りたい」と言えばさせてあげようという親はたくさんいるに違いない。
「野球がしたい」「バスケットボールがした違」言えばやらせてあげる親は沢山いるだろう。
でも例えばどうだろう?
「農業がやりたい」「漁師になりたい」と子供が言い出したらどうだろう?
「動物園で働きたい」「牛丼屋になりたい」と言えばどうだろう?
まずは「そんなものお金にならないからやめておきなさい」と言われるだろうか?
子供に「お金になることをしなさい」と言っている親ってどうなんだろう?
ピアノやバレエをして有名なピアニストになったら、世界的なバレリーナになったら親は自慢するだろう。
でも子供が動物園で働いていたり漁師になって働いていたなら親はどう思うのだろうか?
「有名なバレリーナになって世界中で公演するんだ」と考えている子供と、
「土にまみれて汗を流して畑を耕したい」と考えている子供はどう違うんだろう?
ピアノを習ったりバレエを習ったりするにはそれなりのお金がかかる。
畑を耕したり牛丼屋になるのは本人の意思次第で家庭環境はそれほど関係がない。
ではどちらが幸せなんだろう?
「幸せ」を生活環境や収入で判断するのか、精神的な充実度で判断するのか?
どちらが「生きる力」を持っているのか?
親は子供本人ではない。親は本当に子供の幸せを願っているんだろうか?
そして子供はいつの間にか「自分の価値観」ではなく「親の価値観」や「社会の価値観」で物事を考え始めていないだろうか?

●やりたいようにやれば良い

好き勝手にしなさい、というのとはちょっと違う。
やりたい放題、好き勝手にしたなら、本人ではない誰かが傷つくからだ。
「自分自身が欲しいと思った力を身につける力」をどうすれば身につけることが出来るのか?
そのために、がんじがらめになった今の環境から飛び出す必要があるということだと思う。「好き勝手にする」のは自分の周りに作られた枠を取り払う、あるいは壊すことではないか?
「漁師になりたい」子供が都会に住んでいては、何もしなければ漁師に会うことすらできない。
でも例えばネット上で漁師と知り合って話ができたならどうだろう?
住んでいるのが都会であってもいろんな漁師の生活や収入のこと、苦しいこと、楽しいことを聞いて学ぶことは出来る。
ただしそれはあくまでも「体験」ではなくて知的な学習の範囲に収まる。
でもその友達になった「漁師」から「一度遊びにおいでよ」と言われたらどうだろう?都会からほとんど出たことのない若者が都会という枠を飛び出して
「海は行楽の場所」と思っていたその場所で船に乗り、
魚の棘で怪我をして、その魚を食べる。疲れ切った体で風呂に入り、皆で雑魚寝をする。朝4時に薄暗いうちから叩き起こされてまた船に乗る。
初めての体験、未知の体験が待っている。

●体験をしなければ「やりたいこと」は選ぶことが出来ない。

学校を卒業して就職するとき、その場でアルバイトでもしたことがなければ
ほとんどの人は就職して初めてその職業を体験することになる。
机にかじりついて学習をしてきた人にとって、その環境に近いオフィスワークはドラマや映画でも見ることができ、容易に想像しやすい。
でもいきなり漁師になったり農業をするならほとんどの体験はどうなるのか想像できない。人は体験しなければその状況をリアルに想像できないのだ。
「好き」という想いも「嫌い」という想いも体験の中から生まれる。
だから若いうちに様々な体験をすることは「選ぶ権利」を手に入れるということになる。なぜなら、それぞれの「良いところ」と「悪いところ」を知ることが出来るのだから。
「好き」な体験や「楽しかった」体験、「思ったより上手に出来た」体験、
「叱られてしまった」体験などの中から本当に「自分がやりたい」ことを選択することができる。
だから早くから多くの人と「出会い」、様々な「体験」を獲得することで
人は「才能」も獲得することが出来るようになる。
スタートアップのほとんどかデジタル系で占められているのは、
「デジタルで起業すれば成功者になれる」と様々なメディアで情報が拡散するからだ。では「成功者」とは何だろう?収入が多いことだろうか?
デジタルの能力はこれから必要になる。それは方法論として。
でもデジタルを職業にすることは選択肢の一つでしかない。
まずは自分が持っている情報の偏りを正して、大きな視野で情報を手に入れることだ。「興味がない」のではなく、おそらくそれは「未知のもの」に対する恐怖心だろう。それを克服する方法は「体験」であると思う。
「体験」によって人は初めて「選択」の意味を知ることになる。

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