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概念を溶かす

今、概念を溶かすことに必死だ。
必死というのはオーバーだが、これまでの経験などから形成された薄い思想を一度ぶっ壊して立て直したく思う。
ロミンガーの法則では「経験70:薫陶20:研修10」とあるが、今はこの経験で培った信念ともいうべき塊を溶かさねばいけない。
いわゆる「べき論」だ。自分にはないと思っていたが、他人以上にあると感じた。
ないと思っていたのは、守られていたとき。いざ、進むとなるとあることに気づく。
経験はプラスばかりでなくマイナスもある。ポジティブばかりでなくネガティブもある。両面が要所要所で使い分けたように現れて自分の進路に立ちはだかる。
「過去のお前はどうだった?」と。

変なことを書いているが、自省、備忘のために書き留めておきたい。

これからの世界は、まさに子どもの頃にテレビで見たSF世界に近づいている。
昔、更地の汐留にデカい高層ビルが立ち並んだとき、ビルの一つの最上階から眺めた景色は今にも鉄腕アトムが飛んでやってきそうな景色に感じた。その時は、まさか?と思ったが、今は現実だってあり得る話。携帯もまた子どもの頃に遊んだチャちいトランシーバー、あれは何かの任務を行う(科学捜査隊など?)人しか持たないものと、拳銃と同じくらいの考えだったが、大人になると手に入り、今では大人どころではなくなった。

PCが普及する前、ワードプロセッサーを買った。たしか「書院」で15万円くらいしたと思う。それまでの企画書は手書き、罫線は定規、鉛筆で下書きしてペンで整えた。鉛筆のままコピーしたことも。そのうち、FAXで送ったら翌日ワープロ化してくれる業者が現れ、すげえなあと喜んだ。業者から部署に1台しかないPCに送られそれをプリントアウトした。PCはIBM製だったか忘れたが個人が持つ時代でなく、周りより早く「書院」を手にした自分は”出来る”を装った。それからWindowsが席巻、自分は当時Windowsに対抗して同価格で出たMacにしたが、何せソフトが高く、周りWindowsばかりで互換性乏しく、泣く泣くWindowsに乗り換えた。今はどちらでもさほど差はない。

さて、AIを学ぶことは僕にとってとても刺激があることと感じた。ChatGPTをはじめとする生成AIの進化は、Windows95が登場した時以来の衝撃というが、自分もそう感じている。そこで何を行うか・・。一つ言えるのは何を始めるにしても、何を学ぶにしても、極端に言えばコストが抑えられること、これは大きい。言い換えればトライ&エラーがたくさん出来ることだ。僕のようなボンクラには好都合。

ゴールを設定というが、ゴールは設定できない。
やりたいからやる、やった先に何かが見える。気づいたらゴールに到達していた。この経験は過去にもある。経験が邪魔と言ったが、この経験は持っておきたい。

ChatGPTが自分の思考をどんどん引き出してくれている。ありがたい。

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