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「いのち」と「いただく」が近い暮らし

6年前の今日は、フィリピンの離島で豚を焼いていました。

というのは嘘で、上記は焼いている現地の人に頼んで写真を撮らせてもらったものです。

フィリピンでは豚の丸焼きは「レチョン」と言い、お祝い事等で食べる高級料理。パリパリの皮が特にご馳走とのことで、おもてなしの場合や一家の大黒柱たる人からいただくことが多いです。

久しぶりにこの写真を見て思ったのは、この島にいた頃は「生命(いのち)」と「いただく」がすごく近かったのですが、都会に住んでいる今はその距離が遠く、感性が鈍りやすくなるということです。

つい昨日、25日が終わりを迎えようとしたタイミングでコンビニに物を買いに行った時、品物を選んでいる側から、店員さんがクリスマスの装飾を外していったり、余ったケーキなどを片付けている姿が目につきました。

フィリピンに行った時に驚いたのは、半袖半ズボンで過ごせるクリスマスということと、年明けしてもしばらくクリスマスだとみんなが認識しているため、装飾や売っているものも1月になってもしばらく続きます。

私はこの体験があったので、クリスマスは25日で終わり、じゃないという見方があります。

その見方からすると、賞味期限が切れていないケーキを廃棄する理由が、クリスマスシーズン(商戦)が終わったから、という理由で行われてしまうことに違和感を感じてしまうのです。

きっと、お客さんの中にも「クリスマスが終わったのにまだ売ってるの?」と思う人もいるでしょう。(以前の私もそう思ったことはあるはず)

このことはまさに「いのち」と「いただく」が分断されている現象と言えるでしょう。

私は今、理由があって都会に住むことを選んでいますが、その環境においても「いのちをいただく」に自覚的に生活していきたいと改めて感じたのでした。

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