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クリスマスのBGMと、自分の本当の欲求の話

スターバックスにいると、クリスマスソングが流れてきた。クリスマスは来月なので1ヶ月半くらい早くから「その気」にさせる準備が始まっていると言える。徐々に飾り付けも増えていって、クリスマスの雰囲気を至る所から感じるようになって、クリスマスと言えば・・・というモノやコトを消費したくなる購買意欲が掻き立てられていくワケだ。
 
とはいえ私はクリスマス反対と言いたいわけではない。欲求は外部からの刺激によって作られることがあると言いたいのだ。特に現代社会においてはほとんどの欲求が(自分で選んでいないという意味で)反応的な欲求だと見受けられる。
 
私がそう思うに至ったきっかけがある。私は2010年にハワイ島のオーガニックファームでほぼ自給自足の生活をしていた。その時は週に平均30時間のペースでファーミングをしていたので服装といえば、麦わら帽子、Tシャツ、長ズボン、長靴だった。

その生活に区切りをつけて、日本へ帰る機内でのこと。機内はすでに暗く、ご飯を食べる時間帯ではなかったと思うが機内食が出された。しかし、私はお腹がいっぱいだったので食べないという選択をした。多くの人たちは次々とパッケージを開けて食事をしていた。その時にふと思ったのは、この中で何人くらいの人が自分が食べたいかどうかを判断せず出されたから食べているのだろうか、ということだった。すごく失礼な表現になってしまうのだが、養豚場のように見えてしまったのだ。こうやって飼いならされていくのかと思ってしまった。

より身近な例でいうとお腹が減っていなくても○時になったから食べておこうというのはよくあることだ。ということは、習慣が欲求という名の義務感を作り出しているのだろう。


また、もう1つ帰国して感じたことがある。それは服装についてだ。前述した通り、ファームにいる頃の服装はシンプルなものだった。それでよかった。しかし、いざ帰国し都内で過ごそうとすると、「あの人に会うにはこういう服装がいいかな、とか。徐々に周囲と違和感のない服装をした方がいいなと感じてきて、服装を整えたいという欲求が出てきたのだ。集団の中で暮らすというのはそれだけでお金がかかるのだなと思ったことを覚えている。
 
これらの話から私は欲求の中にはそれが欲しいと思わされている性質のものがあると感じるようになったのだ。こういった気づきがあると、あれもこれも疑うようになり、大変になってくる(笑)しかし、私はもし人生において自分で選んでいるという実感が欲しいのであれば、このプロセスは必要なものだと思っているのだ。
 
ちなみに、この疑いを深掘りしていった先には自分の価値観の見直しが待っている。そしてその時には自分の価値観だと思っていたことが実は、親の価値観を無意識に受け継いでいたり、幼少期の生活環境によって形成されたものであり、自分で選んだものではないと気がつくのだ。(考えてみると当たり前なんだけど)

その上で、それらの価値観の中から選び直したいものは選び、不要なものは捨てるのだ。このプロセスのことを「親切」と呼んでいる教育者の方がいるが言いえて妙だと思う。
 
余談ではあるが、私が社会人になりたての頃に通っていた起業家育成スクールの講師の方がこんなことを言っていた。「本当の社会人とは、社会の中でここだという自分のポジションを決めている人のことだが、ほとんどの人がそれが分かっていない。言ってみれば会社人だらけなんだ。」この時から、私は社会の中の自分のポジションとは?を考えるようになったと思う。 しかし、そもそもこんなことを人生の中で問われたことがない人が圧倒的に多いのだから、仕方がないことだ。(これからは仕方ないじゃ済まされなくなってくる)
 
価値観を自分で選び直す、社会の立ち位置を自分で選び直す。この2つの選び直しがあってこそ、自立と言えるのかもしれない。副業解禁、シェアリングエコノミー、地方移住・多拠点居住促進などの流れの影響で、会社や住んでいる場所など、今まで絶対的に思えた境界線がなくなっていくことは避けられない。そんな中、私たち1人1人が「私は何者か?」という問いを突きつけられることになる。そういう意味で今という時代は最高に自由であり、最高に残酷だなと感じるのである。


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