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「福岡伸一、西田哲学を読む;生命をめぐる思索の旅」を読んでいます〜西田幾多郎の定義する哲学とは?編〜

はじめに

昨年末から最近まで探究なかまと毎週少しずつ書籍『福岡伸一、西田哲学を読む:生命をめぐる思索の旅』を読み進めていました。

今回は、この本の中で引用されている西田幾多郎の言葉を引用しながら彼が哲学をどう捉えていたのかについて紹介したいと思います。

西田幾多郎の定義する哲学とは?

『科学は本来「分析」の学問でこそあった。哲学はこれに反して、『直観』の学問である、物自身になって見てその絶対的状態を捕捉するのである。符号を要しない学問である』

p333

『物には二つの見方がある。一つは物を外から見るのである、或る一つの立脚地から見るのである。それで、その立脚地によって見方も変わってこなければならない、立脚地が無数にあることができるから、見方も無数にある筈である。また、かくある立脚地から物を見るというのは、物を他との関係上から見るのである、物の他との関係する一方面だけ離して見るのである。分析ということは、物を他物に由って言い表すことで、この見方はすべて翻訳である、符号Symbolによって言い現わすのである。

然るに、もう一つの見方は、物を内から見るのである。ここに着眼点などというものは少しもない、物自身になって物を見るのである、即ち直観Intuitionである。』

『西田哲学における「直観」即ち「物自身になって物を見る」とは、「一切の着眼点なしに全体を丸ごと感得する方法」でこそあった。』

p328

思ったこと

これまで「哲学とは?」について深めたことがない私の思う哲学とは、どこか身体は置いておいて思考することを指しているような印象があったのですが、西田幾多郎の定義をみると『全身で見る(私的には「観る」イメージ)』と感じられる、身体的アプローチなのだなと思ったのです。

と同時に思ったことは、そもそも哲学の原語である「philosophy」という言葉はいつから使われるようになったのかなどの歴史にも興味が湧きましたし、私たちの多くが哲学者といえば想起されるソクラテスなどの古代ギリシアが始まりというネットの情報を見る中で、その頃の哲学は西田幾多郎のいう『「物自身になって見てその絶対的状態を捕捉する」という「直観」の学問』だったのか、違うのか?についても興味が湧きました。

書籍『福岡伸一、西田哲学を読む:生命をめぐる思索の旅』の中では、ヘラクレイトスなどの「ソクラテス以前の哲学者」の方々の中には西田幾多郎と似た捉え方をしていたと思える箇所もありましたので、よりじっくり読み込んで比較していくと分かりそうな気もしますが、まだその森に踏み入れていく覚悟はありません(笑)

さいごに

私は書籍『福岡伸一、西田哲学を読む:生命をめぐる思索の旅』の中で福岡伸一さんの対談相手である哲学者、池田善昭さんの西田哲学解釈を学ぶことを通じて、西田哲学への理解を深めようと試みています。この書籍の続編と言われる池田さんの単著はすでに絶版となっており定価で手に入れることはできませんが、いい機会だったので手に入れて読み始めています。

私の読書熱はシーズンがありますが、今の熱があるシーズンのうちにどこまで深めることができるかなぁ。それも楽しみにしています。

そのプロセスの中で、できる限りnoteにアウトプットしていきたいと思います。


西田哲学について書いたシリーズはこちら


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