ソースプリンシプルを探究していたら言葉・ルールは何のためにあるのか気になった
ソースプリンシプル(原理)というレンズでは、組織(Organizaiton)をその言葉から想起されやすい固体的なイメージから、組織化(Organizing)という動的なプロセスと捉えています。
このレンズに慣れ親しみながら同時期に書籍「福岡伸一、西田哲学を読む」を読書会で仲間と読むことを通じて、ピュシスという概念や「西田哲学における生命とは?」を知り学んでいます。(この本も仲間がいなければ読み続けることができなかった・・・)
この2つに慣れ親しんでいく中で、色んなことを「流れという場所から観る」という感覚が育まれてきているのを感じます。
その影響からか、最近、この「流れという場所」から観た時にルールや言葉といった人間が生み出してきた「形」(今多くの場面でその「形」的な対象がネガティブなものとして扱われがちなイメージがありますが)はなぜ必要とされてきた、必要とされているのだろう?という問いが湧いていました。
先日参加した蜃気楼大学という生成的なイベントで開催された「コミュニティと組織」にまつわるパネルディスカッションの中で、ふとこの問いをパネラーの方々に投げかけてみたところ、「ティール組織」解説者・場づくりのプロである嘉村賢州さんと、コミュニティ経営という書籍を出版予定の株式会社人事労務の金野美香さんが答えてくれました。
2人の答えを受けて私が受け取ったものは、言葉・ルール・制度といった形も「技術」だということ。時間をかけて改善されてきた人の創意工夫の結晶であるということ。
では、何のための技術なのか?というと私にとっては共同創造のためだと思えました。
そう捉えると、言葉を話せる時点で私たちは「一緒に」が埋め込まれている存在なんだと思えて、共に生きていく、共に創造していくのが当たり前の生き物なんだと思えて、心にあたたかいものが流れる感じがしませんか。
この気づきにより、言葉やルール・制度を書籍に出てくるピュシス(※)の立場から捉え直すことができたような気がして、今後、それらを扱う際には「これは共同創造を促進するものとなっているのだろうか?」という問いを持って取り組むことができるなと思えました。
また、ティール組織、心理的安全性、パーパスといったコンセプトの登場及び流行は大局で捉えれば、ロゴスに大きく偏ったシーン(そしてそれを生み出している土台)にピュシスを取り戻そうとしているプロセスのようにも思えます。
この流れの重要性は私も感じますし、私個人としても必要なほどに必要な人にピュシスが取り戻されることは役目の1つだと感じて、日々活動しています。
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