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パルクールシーンの日本の第一人者であるZENさんの初の個展へ行ってきました

はじめに

ひょんなことからパルクールシーンの日本の第一人者であるZENさんの初の個展へ。

本格オープンは明日(6月15日:木)からですので東京・代官山へ行ける人はぜひ♪

数年前にYouTubeを観てすごいなぁ!カッコいいなぁ!と感じたことを思い出します。

個展の説明

本展は、15歳でパルクールと出会い、プロアスリートとして2020年世界大会で優勝したZENがパルクールを通して世界各国を巡る活動の中で出会った街の姿と自身の動きを独自の視点で捉えたもので、「街に存在する物の姿」を残すことをテーマとしたキャンバス作品20点と、その経験やインスピレーションを受け制作した立体やペインティング作品を展示いたします。

こちらのサイトから引用

今回の個展にかける想いや作品に込めた想いなどを聴くことができました。

ZENさんの話を聴いている中で感じたこと

人は誰もが毎瞬毎瞬、見えないカメラでその人の体験を写真に収めているのではないか。

その写真はその時々でアタマ・ココロ・カラダのいずれかに重心が置かれながらシャッターが切られたもの。

絶え間ないその人が世界と出会い続けているという営み、言い換えればその見て聴いて感じている世界。

いま私が見せてもらっている作品はまさにその断片であり、ZENさんの世界への入り口(窓)でもある。

そんなイメージが湧きました。

また、私たちは必ずしも世界と5感を通して出会っていることに気がついていなくて、いまこの瞬間のダイナミズムではなく、自分が見たいように、ある意味では思考的に見ていることもある。

でも、私が今回観ることができたのはパルクールという全身全霊をフル活用する彼が身体的に感じた街などの姿のように感じられた。

通常であれば、感じる→言語化する→聞いて分かるといったプロセスになりがちなコミュニケーションが、言語化→聞いて分かるというプロセスをすっ飛ばして、感じたことをそのまま毛穴から吸収できたってことなんじゃないか、そんなことを思った。

今回の体験を通じて感じたこと

それは、私自身ももっと自身の目で見て、耳で聴いて、体で感じたこと、嗅いだこと、味わったことをそのまま出していこう、ということ。

LIVEという言葉が好きだ。

事前に準備されたものを発表する場という意味ではなく、生きている、生き続けている、そのままに舞台に上がり、その生き様自体が伝わっていく。

いや、それはもはやどこかにある舞台に上がるということではなく、私が生きているという舞台にみんなに来てもらうということでもあるのかもしれない。

私は私の舞台を生きる。

そんなところに立つとしたら、それは結果としてZENさんが立っているところと似たところに立てているということなのかもしれない。

私は、目撃する人だけではつまらない。

私は私の舞台を生きる。

そんなメッセージを受け取った体験だったのでした。

さいごに

なんか今回発見できたことを書いたような気がしたけれど、昨晩一度だけみた今回の個展のPVを見直してみたら、ZENさんが言っていることの影響をそのまま受けているだけかも!?なんて思ったりした。

そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

でも、確かなのは決して多くはないアーティストの個展にいった体験のいずれの時も作品とアーティストの関係性について質感を伴って立体的に感じられたことはなかったということ。

たまたま今週、別の個展にいく予定が入っているので、その時にどう感じるのかが楽しみ。

そして、あくまで私はこう感じた、というだけなので、「私は何を感じるんだろう?」という興味が湧いた方はぜひいってみてくださいね。


おまけ、

作品を読み解きたいという意識が働き、眺めていたら、

重力 
当たり前のように働き続けているがなかなか気づかれないもの

その「重力がある」がないことになっている

「重力がないこと」

「運命から自由になっていること」
とも思える。

でも、そのこと自体は分かりやすく主張することもなく、こちらが気づけていないことに違和感を感じることもない

でも、
確かに在る。

そんなことが浮かび上がってきた。

私は何を運命だと思っているのだろう?
その運命から自由になることはどういうことを意味しているのだろう?

そんな問いが生まれた。

ちょいと、考えてみたい


おまけのおまけ、

今後は、作品を撮っている時の音声も同じくストックしておいて、撮影している時の体感が視覚的だけではなく聴覚でも感じられるのはその場に立てているような気がしていい気がするなぁ、聴いてみたいなぁ。

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