二律背反を乗り越える

思えばもうずーっと何年も、自分の中で矛盾を感じながら生きてきたと思う。

それは、何でもかんでもお金に換算される世界から逃れたいという気持ちと、一方でお金によって自分の生活が成り立っているという厳然たる事実に、板挟みになっているからだと思う。

そして違和感を感じながらも、結局根本的な解決に至るアクションをとれていないことにも嫌気がさしている。

私は跡継ぎとして父が経営する会社で働いている。正直、自分の実力以上にお給料をもらっていると思う。それで妻子を養い、日々不自由なく生活を送らせてもらっている。

この状況において、お金に換算される世界から逃れたい、とか、そんなこと言う資格があるのだろうか。まずは一生懸命仕事に励み、「稼げる」ようになるのが先決ではないか。

跡継ぎならなおのことだろう。

けど、平日懸命に働いたとしても、休日のふとした瞬間、自分はこのままで本当にいいのだろうか?という疑念が頭をよぎる。よぎってしまう。

一切の枷を取り払って良いと言うのなら、この生き方を選んでいるのだろうか?

自分の気持ちに正直になる、ということは、ときに周囲に多大な迷惑をかけることがある。自由には、痛みが伴う。だから、どうしてもブレーキがかかる。心のブレーキだ。

跡を継ぐと決めた以上、今更あとには戻れない。これを放棄することは、自分を裏切ることに他ならない。中小企業である家業の跡継ぎは、他の人が取って代わることは(なかなか)できない、私にしかできないことだ。使命といってもいいと思う。

やりたいことより、できることやすべきことを優先する生き方も同じくらい尊いものだと思う。どちらがいいとかそういう話ではない。

ただ、私に限って言えば、おそらく使命感だけで人生を走り切ることは難しそうだ。
いや、正確には使命感と呼べるほど動機を昇華できていないのだろう。どこか、世間体とか、他にやる人がいないからとか、消極的な理由で継ぐことを決めた甘い部分があるのかもしれない。
だから、本当の意味で使命感を持って仕事に取り組むことができれば、使命感だけで一生を終えることもできるのだろう。

ただ、少なくとも今はそれだけでは走りきれないという感覚があって、ではどうすれば?となるのだが、家業を捨てることはできないし、かといって自分の心に嘘をついて生きていけるほど器用ではない。

つまり、この矛盾した、二律背反を乗り越える視座を持つしかないということになる。

家業と本能、これを切り離された別々の世界でとらえるのではなく、境界線はあいまいにゆらいでいくものだととらえて、お互いに交わるようなイメージとして向き合うべきなんだろう。

いや、まてよ。
そもそも、本能=本当の自分という考え方が間違っている気がする。本当の自分、〈自我〉とでも呼ぶべき自分なんて、どこにも存在しないのでは?

無我の境地。仏教ですな。

ありもしない自分に囚われているから苦しくなる。元々、自分なんてどこにもいない。どれも自分だし、どれも自分でない。

そもそも人間は多面的な生き物なんだから、あらゆる面、良い面も悪い面も含めて、まるっと〈自分〉なんだよな。ここで言う〈自分〉って、仮の姿で、常に移り変わる世界において一時的にたまたま人の形を成したもの。アメーバみたいなもん。

そんな仮の姿に思い悩むなんて、バカバカしいですね。

常時移ろいゆくのであれば、流れに身を任せて生きた方が賢明。というか自然。どんな〈自分〉も受け入れる姿勢さえあればいいのかもしれない。

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