見出し画像

【KX物語 第3話】kさん、ヘンなメガネをかけてみる。

どんよりする

と書かれたカードを目の前に改めて置かれ、kさんの身体は固まってしまいました。
・・・「なぜ、どんよりするんでしょう?」って、、、なぜ、って、、、人生100年時代って聞いたら、まずはお金でしょう。2000万じゃ全然足りないっていうし、定年するまでにお金がそんなに貯められるわけないし、、、しかし、そんなこと口にするわけないでしょう。初対面の、こんなわけの分からない人に、、、
 テーブルの上のカードから視線を上げてマスターを見ると、じっとkさんを見ています。首を少し横に捻り、さあどうぞ、お話しください、というような姿勢です。なんだかワクワクしている表情にも見えます。
・・・なんだよ、他人の不幸は蜜の味、ってか。さっきも、ちょっと笑ってたもんなあ、、、いや、絶対に話さないから、、、
 マスターとkさんの視線が交錯します。お互いに黙ったままです。そんな居心地の悪い沈黙を破り、突然声が聞こえてきました。
「終わりました」 
 先客である女性の声です。見ると、先ほどの妙なメガネを外し、ちょっと神妙な感じの表情をしながらマスターにまなざしを送っています。マスターは、kさんに右手を上げて、ちょっと待ってて、というようなポーズをしながら席を立ちます。そして、先客に、
「こちらへどうぞ」
と声を掛け、カウンターの端の席を指しながら、自分もカウンターの中に入っていきます。先客も、呼ばれるままにカウンターの端の席に移っていきます。
 マスターは、奥の棚から一枚のLPを取り出し、ターンテーブルに乗せます。店に入ってきた時と同じようなJazzがかかり始めました。少し音量が大きめです。そんな中で、2人はカウンター越しに話し始めました。声は聞こえますが、話している内容はよく聞こえません。聞き耳を立てるのを諦め、kさんは再びテーブルに置かれたままの

どんよりする

と書かれたカードに視線を戻します。
・・・お金もそうだし、そもそもいつまで働くのかなあ。うちの会社も定年延長するらしいけど、わたしがその歳になる頃には、もっと先になってるかもしれないなあ。退職金もまた減るかもしれないし、ということは定年したってきっとまだ働かなくちゃならないし、、、
 そんな物思いにふけっていたkさんのスマホからいつものチャイムが聞こえてきます。ミーティングが始まる5分前にアラームが鳴るように、いつもセットしているのです。kさんは、Teamsを立ち上げ、カレンダーにマークされている「部長会報告」をクリックして、添付ファイルを開きます。そして、ミーティングIDをクリックします。これから小一時間、いつもの退屈な時間が始まります。
『えーーーーーーー、皆さんお疲れ様ですぅ。えーーーーー、それではぁ、えーーーーー、今週のぉ部長会報告をぉ、始めますぅ。まずは全社の商況報告からぁ、、、、えーーーーー、、、』
 こうして部長からの会議報告が続きます。合い間に、課長やプロジェクトマネジャーに意見や報告を求めるケースもありますが、kさんに声がかかることはまずありません。それに、報告事項の中でkさんの実際の仕事に関わるものは、ごく一部です。だから、画面オフ、音声もオフ、が基本です。同じモードで参加している人が9割を占めています。
・・・ここは、資料見ておけば十分。合い間に仕事しちゃおう。
 と、ミーティングの音量を落として、イヤホンを片耳外して、といういつもの姿勢に入ろうとすると、イヤホンを外した片耳に、先客の話し声が入ってきます。相変わらず話の内容はよくわからないのですが、テンションが上がっているのか、先ほどより明らかに声が大きくなっています。いくつかの単語ははっきりと聞き取れます。
・・・さっきから、わがまま、わがまま、、、、って何だろう。それに、なんか変な発音だな。がまま、、、って、、、、ん?  今度はヘンタイ、、、、か。
 どうやら、カウンターの上に何かが置かれているようです。先客は、それを指さして話しているかと思うと、少し違う場所に指を動かして、考え込んだりしています。テーブル席からだと、カウンターに置かれているものは微妙に見えない角度になっているので、それが何だかはよくわかりません。
 やがて、先客は、一番奥の方に置かれているものを指さし、どうやらそのものの上に指を乗せ、マスターの前へと動かしました。先客の横顔からは、その状況を楽しんでいる気配が感じられます。
 すると、マスターは、カウンターの上の例の小さな箱を開いて、先客に差し出しました。そして、中を指さしながら説明を始めました。先客は、話を熱心に聞きながら、箱の中のものを手にとって、眺めては戻し、別のものを手にとって眺めては戻しています。その様子を吸い寄せられるように見つめていたkさんの耳に、部長の声が入ってきます。
『えーーーーー、続きましてはぁ、各事業部からの報告に移りますぅ。まずは、えーーーーー、、、』
・・・ああ、ここは聞いておかなくちゃ。
 あわててイヤホンを元に戻し、ボリュームを大きくしながらも、kさんの眼は、先客とマスターとのやり取りにくぎ付けになっています。先客は、やがて、箱の中から何かをひとつ取り出し、手に持ってカウンターを離れ、元の席に戻ります。近づいてくるので、手の中のものが見えそうです。見ないふりをしながらも、目の端で追いかけると、白いものが見えます。カプセルのように見えます。先客は、席に着くと、そのカプセルらしきものを開けます。中から出てきたのは一枚の紙。小さくたたまれていて、広げるとA4サイズぐらいになりました。先客は、その紙を手に持って眺めています。何か書いてあるのでしょう。そして、その紙をテーブルの上に置き、スマホを取り出し、カウンターへと再び向かいます。
 kさんは、少し背を伸ばして、先客の席に置かれている紙を見ようとしました。中身まではよく見えませんが、表組のようなもののようです。
 すると、先客がまたすぐに席に戻ってきて、テーブルの上の紙をもって、再びマスターのところに戻り、紙をカウンターに置きながら、話し込み始めました。先客の質問に、マスターが丁寧に答えているようです。
 イヤホンからは、会議での報告の音声が流れていますが、kさんの耳にはもはや入っていません。いま目の前で起きていることが気になって、それどころではありません。
 テーブルの端に置いてある例の小さな箱に目をやります。kさんの視線の先にあるのは、例のヘンなメガネです。kさんは、さりげない感じで箱に手を伸ばし、メガネを取り出しました。そして、小さく息をつくと、そのメガネをかけてみたのです。 

(つづく)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?