【藤田一照仏教塾】道元からライフデザインへ(19/05)学習ノート③
(ここまでの5月一照塾)
正法眼蔵の編集形式や弁道話にまつわる基礎的知識についての一照さんの講義は、学習ノート①にて。
4月一照塾の復習を踏まえつつ、「路線変更」を主題とした一照さんの講義の模様は、学習ノート②をご覧ください。
この「学習ノート③」では、5月一照塾までに塾生が取り組んできたhomeworkのシェアリングのワークについて振り返っていきます。
1. 塾生に渡されたhomework
(5月一照塾までのhomework)
4月一照塾の場で「自受用三昧」の話を聞いて、自分の中に立ち上がってきた「身体感覚、感情、思考」を、短い文章にしてきてください。
§
2. 回向返照の退歩を人類的に学すべし
(塾生aさんのシェア)
自分で選んだ"路線"とはいえ、毎朝家を出て、会社で働いて、仕事が終わったら呑んで帰る…という、このグループの中ではいちばん典型的なサラリーマン生活を過ごしています。 「やらなきゃいけないこと」があふれている日常生活を、どのようにかみ砕いて「三昧」するか…ということに対する"焦り"の気持ちがある。
それに対して、ボランティア活動に携わっていらっしゃる方から、
・人たちの中に混じり合って居心地がいい
・「自分」が消えてなくなっていく感じ
・考えなくてもごく自然に、細胞の一つになったようにためらいなく身体が動く感じ
…という「無名になる感覚」という反応が返って来て、とてもinspireを受けました。
「三昧」という言葉を下敷きにして、今までの自分はどうだったのか…と考えた時に、「<ありかた>を究めていく、"あるようにある"」のが三昧だとすると、仕事をしているときの自分は、「ありかたに浸っていなかったのでは?」と思わされました。
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〔一照さんトーク〕
いきなり濃い話が出てきましたね!
先ほど午前中に「unexamined life (吟味されていない人生)」という話をしましたけれども、皆さんそれぞれ、皆さんなりに「人生設計」をしてきたと思います。ある人は100%設計通りに生きている人もいれば、達成度2割くらいかな…という人もいるかもしれない。それは人それぞれだろうけれども、人生それ自体がexamineされているか?というのが先ほどの話でした。
では、「何を"吟味していない"か?」を考えるときに、私たちにはもう既に「出来合いの人生観」が与えられている、あるいは「条件づけられている (conditioned)」。現代日本という環境の中で育つうちに、人生設計のための材料になる、土台になる考え方が、気がついたら知らない間にできてしまっているというわけです。
心理学的に言うと、最も初めに影響を受けるのが両親・保護者・家族からで、中学生・高校生の年代にまで育っていくと、だんだん外へ目が向くようになって、社会からの影響を受けるようにもなってくるのですが、そういう影響の受け方のことを「条件づけられた (conditioned)」とか、あるいは「プログラムされた (programmed)」とも言えるかもしれませんが、いずれにしても「られた (~ed)」ということで「受け身」なわけです。
ほかの動物の場合は、本能がほとんど自動的にはたらいて、蜘蛛だったらあのようなかたちの蜘蛛の巣をはって生きていくし、鳥だったら木の上に巣をかけて子どもを育てるし…ということで生きていくのですが、人間の場合は、生後に学んで、生きていく術を身につけるという選択を後天的にしたわけです。
人間がそれを選んだ、ということは、人間という「種としての条件」なので、これは仕方ない。ブッダや道元にとっても、これは同じことです。
ほとんどの場合は、人間はこの「条件づけ」の中で生きて死んでいくのですが、中にはこの条件づけに「ちょっと待てよ?」とクエスチョンマークをつける人が出てきます。自分が敷いた覚えのない路線に従わされているのではないか?という違和感…というか、私の言い方だと、
「Not at home」
ここはほんとうの家ではないのではないか?
という疑いなり問いが生まれる人が出てくることがあります。そういう違和感や疑問を持つこと自体は、成熟のひとつの証しだと思います。
「私」という人間がいて、「あるデザインに基づいた路線」に従って生きるという実行をしようとしている。
「路線の先にあるあそこへ行こう!」というのが普通の意識の使い方ですけれど、中にはその意識の向きを反転させて、自分の方へ向け返す人が出てくる。こういうのを、
「回向返照の退歩」(普勧坐禅儀)
と言います。
目標に向かってどんどん近づいていくあり方は「進歩」ですが、外側へ向けていた意識の光の向きを変えて、自分を照らし返して見てみる「退歩」というのが道元さんの表現です。「回向返照の退歩を学すべし」というのが、仏道修行のあり方です。
これからは、この「回向返照の退歩」を、限られた宗教的エリートというか意識の高い人たちだけではなくて、人類として始めなければいけない時代なのではないか、と思うのです。
今までは、ブッダとかイエスとか、道元とか…先鋭的なフロントランナー的な人たち、普通の人よりも目覚めが早かったような人たちが私たちを牽引してくれていたのですが、今はもうそういう「ヒーロー」が始めた宗教ではない時代に入りつつあるのではないか。
ヒーローが生まれない時代…"にせヒーロー"はたくさん出てくるかもしれないけれど、ほんとうのヒーローが出てくる条件が、昔と比べるとなくなってきているし、むしろその先へ進んでいくべきなのではないでしょうか。
ティク・ナット・ハンさんは、「One Buddha is not enough.」と言っていますね。「ひとりのブッダでは足らない!」。「これからはSamgha (サンガ、修行者のコミュニティ)がブッダになる」という新しいヴィジョンを示しています。
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3. 悟りは義務教育で?!
「回向返照の退歩を学す」ことを、"大衆化"…といっては変ですが、もっと当たり前にできなくてはいけない。学校でやるとか。
このことを、『数学する身体』の著者、森田真生さんがこういう風に言っています。
悟りの初歩的な段階は、小・中学校の義務教育期間中に全員が達成できるようになっていくべきだ。
「悟りをもって生きなければいけない」というのがブッダの教えだとするならば、義務教育の段階でほとんどの人が悟りのglimpse(一瞥)くらいは得て、それを深めていくためにその後の人生を使うようになっていかなければいけないのではないですか?
ブッダは悟った立場から教えているのだから、教わる人はもっと早く悟らなければいけないはずなのに…そういう意味で、仏教は「失敗し続けているプロジェクト」なのではないですか?
その話を聞いて、私は「……ハイ。」と何も言えなくなってしまいました。そのくらい言われないと、私たちは目が覚めないのでしょうね。
ライフデザインのことを考えるときに、人生の見直し方を「条件づけられた (conditioned)」とか、「プログラムされた (programmed)」ではない角度から見てデザインしないと、路線変更にならない。
それが、ブッダが説いたことであるし、道元さんが書き残したことであると思います。それらを参考に、私たちが生きているというあり方の根本的な見直しをした上で、そこから私たちがいま実行している人生の設計を見直す作業を各自がやったら、おもしろいのではないか?というアイデアから、今季の塾のタイトルを「Dogen and Lifedesign」にしました。
人生の「re-design」に取り組んでいる真っ最中の人もいれば、これからそれをしようかな…と考えている人もいるだろうし、ライフデザインという発想がそもそもなかった…という人もいるかもしれない。
この塾では、ライフデザインというアイデアに対する様々な想いを持った人たちが集まって、シェアリングしたりディスカッションしたりして、刺激しあえればいいと思っています。
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4. Someone or No-one ?
先ほどシェアして下さったことの中の「無名になる」ということについて。
私たちのunexamined lifeの路線が向かう先に何があるかというと、
「ひとかどの人間にならなければいけない」
I have to become someone.
…みたいな思いがある。
この「ひとかどの」というのは「社会から褒められる」とか「社会にとって有用な人間」ということですよね。社会の役に立つ人間を社会は欲しがっている。一方、社会の役に立たない人間は、何て言われるか知ってる?
役立たず?
穀潰し?
無用者?
唐木順三さんという哲学者が書いた本に『無用者の系譜』というものがあります。
無用者…というと、遍歴放浪する隠者みたいな人たちですね。私は高校生の頃から「無用者になりたい」とマジで思ってました(笑)。隠者にまつわる本をたくさん読んでいました。無用者、隠者…つまり「出家者」のことですね。
例えば働きアリの社会でも、例えば働きアリが100匹いたら一生懸命勤勉に働いているアリは20匹、残り80匹のうちの20匹は全く働かない。勤勉な働きアリだけを集めた集団を作っても、その中でまた働かない怠けアリが2割出てくる…という法則があるといいますし…。
社会全体にとっては、こういう「無用者」的な存在も必要ということですね。しかし、社会の「管理化」がますます進んでくると、こういう連中というのは目障り。無用者的存在にとっては、いつ指先で「プチッ」と潰されるか…というプレッシャーは相当なものだと思います。
一方、インドはその点では大したもので、ブッダが「四門出遊」のエピソードで、最後の4番目の門から出たときに出会ってインスパイアされた、一所不住で放浪する沙門(遊行者)のような人たちが出て生きていられる社会的な素地がかつてはあったのでしょうが、現在の、ITで国が豊かになったインドでは、そういう人たちは生き残れるのでしょうか?
何にもしないで、社会からの施しだけで生きている人たちが生き残っていられる…というのは、日本では無理だったのでしょうね。少なくとも、社会の側からはあまり評価されないだろうし、「社会福祉」の対象になってしまうのです。
これがインドだったら、そういう沙門のような人たちだったら「私は自由に生きたいから、あなたたちのお世話にはなりません、放っておいてください」と言うかもしれませんね。
(塾生bさんのコメント)
私は今年の2月に1か月ほどインドにいる私の先生のところに滞在していました。彼自身は信仰上の理由で"お金に触れることができない"ので、お金を稼ぐことはしていないのですが、彼が説く教えに共感している資産家の人たちが、彼のやりたいことに対して出資をして、小さな村で恵まれない子どもたちのための"学園都市"を作ったりしています。
日本の社会とは全然違う形で、そういう人たちが生きていける仕組みが成り立っていて、社会の中でイキイキと反映されているのを見てきました。
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インドならでは、というか、特異な社会・文明という感じですね。そんな環境からブッダが生まれてきた、というのもうなづけます。
一旦、自分をリセットするには、青虫が蝶になる前に「さなぎ」の状態を経過するわけですが、これはある意味危ないですよね。蝶に羽化できずにさなぎのまま死んでしまうことだってあるわけですから。
しかし、一旦さなぎになることを「リスクを取る」こととするならば、先ほど言った「進歩」の方向へ進むことにだって「危険」はあるわけです。
「ひとかどの者」になれなければ"ペケ✖"、という人生には「勝ち組/負け組」「成功者/失敗者」「落ちこぼれ/勝ち残り」という「価値の序列」ができてしまいます。
「序列」なので、上に行けば行くほど「椅子取りゲームの椅子」は少なくなる。
「ひとかどの人間にならねば」という人生設計をして、その方向へ競争しながら猪突猛進していることを、例えば英語では「rat race」と言ったりします。こういう人生設計だけを絶対視していると窮屈なので、「no-one (何者でもない者)」であることを良しとするのもあり…というのを、ライフデザインの中に織り込んでおくのが良いのだと思います。私などは、
「ひとかどの人間に見えるけれど中身は隠者」
みたいなのがいいかな、って思います(笑)。
あるいは別の言い方をするなら、「社会(世間)にいながら社会(世間)に属さない」。
それから、野口三千三先生の言い方だと、「俗悪を楽しむ聖者」とか。
Someoneとno-oneが対立しないあり方がないものだろうか…と思います。例えば、月~金がSomeoneで土日がno-oneみたいな「ウィークエンド無用者」みたいな(笑)。あるいは、一日の中に無用者でいる時間を作るとか。
またあるいは「そこにいると無用者でいられるサークル」をもつ、とか。
Someoneとno-oneのうまい組み合わせかたを考える…というのも「デザイン」の中に入ってくると思います。
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5. 地縁、血縁、〇〇縁?
私の親友が佐賀県伊万里で住職をしているお寺での「親鸞聖人降誕会」の法要で、釈徹宗さん(如来寺(大阪府池田市)住職、相愛大学教授)と対談をしたのですが、釈さんは「重帰属(帰属先をたくさんもつ)」ということを仰っています。
今までは「職場 - 家庭」だけの往復が多かったかもしれません、たまには「ちょっとお酒が飲める、ママのいるところ」にも帰属していたかもしれませんが(笑)…それも悪くはないのですが、もう一つか二つ、「利害関係が生じなくて、自分らしくいられる場所」があったらそこへ入る、それがなければそういう場所を作る…というような重帰属 (Multiple belonging)について、これからは考える必要がありますね、と仰っていました。
なぜかというと、現代は「地縁、血縁」というつながりがますます失われていっているので、地縁でもない血縁でもない…なに縁になるのかな、仏縁?
そういう別な縁でつながれるグループに帰属することで、「そこへ行くと心から笑える場所」を確保しておくことで、自分の生きる糧を得る…という戦略を構築する、これもまたライフデザインと言えると思いますが、そういうことを考えなければいけませんね、という話をしていました。
地縁でも、血縁でもないつながり…「〇〇縁」といったときに、〇〇には何が入ると思いますか?"仏縁"でも良いけど、私は「知縁」というのもいいなと思います。
・サードプレイス
・拡張家族
キリスト教圏では古来から「エクレシア(ecclesia、神への信仰をもとに集まった人たちの共同体)」がその役割を果たしていていたわけです。
(塾生cさんのコメント)
特定の宗教への信仰をもたないけれども、スピリチュアルな大いなる存在を信じている人たちが世界中から熊野に集まってきている…と言う話を、村川治彦先生(関西大学教授)が仰っていたのを思い出して、こういうことも"第3の縁"といえるのではないでしょうか。
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地縁、血縁というつながりが薄れていっている今日、そういうスケールの大きなものもいいのですが、日常的な「長屋」みたいな気楽な感じのつながりが必要だと思います。手間もお金も時間もかからずにつながれるような。
私は先日、東京にいる人たちと3人で「zoom」というオンラインミーティングのアプリを使って打ち合わせをしていました。
また、身体を動かすことができないALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者さんが、自分の代理人みたいな感じで「メイドのアバター」に声を出させるように工夫して動かしたりしていたり…
そういう意味ではテクノロジーというのは意外にバカにならないものですね。地縁や血縁のつながりがなくなっていった時に、テクノロジーの「善用」とアイデア次第で、それに代わるもので補えるのではないかと思います。
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6. 自受用三昧 - 何をreceiveしているのか
(塾生dさんのシェア)
「自受用三昧」という言葉を聞いた時の感覚ということでは、「見えない力」というのがこの世の中にはあって、それは本質的には分かりっこないものなのだけれど、それを自分なりに何となく感じられたときには、これから自分が為すべきことというのが分かるのではないか…というコメントをくださった方がいました。
また、「自受用三昧」という言葉を聞いた時に「これでいいんだ」と感動して安心することができた、自己の成り立ちというのはとてもうまく出来ていて、自分はもうこれだけで十分なんだと思った…という方もいました。
グループから出たこういう話を聞いて、私は「自受用三昧」という言葉をそのまま見た時に「自分を受け止めること」だと思いました。
「ありのままを見る」というのが、一体どこの位置からどうやって見ればいいのかが分からなくて、悩んでしまいました。
瞑想などをしたとしても、自分の内側に入っていくとしても、外側はあるし、外はあるけど中はあるし…ということで、行ったり来たりしてしまって、結局「受け止める」ということができない…と言う話をグループの中でしました。
これを聴いてくださった方が、「日々、円相を描くための接線を引く…ということなので、その過程の中には揺らいでいる自分があってもいいのではないか、ということを仰ってくださいました。
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〔一照さんコメント〕
坐禅の時の「自受用三昧」はどうなっているのか。
自「受」用ですから、何かを受け取っているのですが、坐禅では何をreceiveしているのでしょうか。
まずreceiveしているのは、「重力」です。これって、タダですね。無料・常時・無条件・無差別で受け取っています。つまり「引き換え」ではないということ。「私が何かする時だけ重力を受け取れる」というものではありません。
20世紀フランスの哲学者、シモーヌ・ヴェイユに『重力と恩寵』という著書があります。
重力というのは、ヴェイユにとってはとても宗教的なメタファーになっていて、「神からの恩寵、Amazing Grace」ですね。
ここで「無差別」というのは、まさに「慈悲」の元型です。
「正身端坐」というのは、重力という慈悲を如何に受け止め、如何に生かして坐るか、ということです。「正しい姿勢で坐る」ということは、単に「きれいに、かっこよく坐る」ということではなく、重力という自受用三昧を表現するということになります。
もう一つ、坐禅で受け取っているものは「空気」です。これも、常に、無条件で、無料で、無差別に受け取っています。これは、道元さんが説く坐禅のクオリティで言うと、坐禅の時の呼吸の状態、「鼻息微通」です。
鼻:鼻から入ってきた
息:息が、
微:微かな感覚を生み出しながら、
通:余すところなく身体全体に通じている
なので、遠慮したりしなくていいのです。
「I don't deserve it...私は恩寵を受け取るに値する人間ではないので遠慮しておきます、ほんのちょっと吸えるだけでいいです」なんて言わなくていいのです(笑)。逆に「もっと欲しい、もっと寄こせ」とも言ってはいけない。ただ、身体と空気との交渉(negotiation)で自然に起こってくる呼吸を邪魔しない、ということです。
重力との関係においても「邪魔をしない」。身体に緊張を作って、重力に逆らって上に引き上げたりしない。全てをお預けする「全託」という態度で行ないます。ヨーガの「屍のポーズ」は、"預ける練習"です。ニュートンの運動三法則の第3法則に「作用・反作用」がありますが、「預けると、くれる」のです。
重力との関係が「調身」、空気との関係が「調息」。
では、「調心」は何が担っているのでしょうか。
眼には、光の波が入ってきて色や形が見える。
耳には、音の波(空気の振動)が届いてくる。
鼻の嗅覚神経細胞に分子がくっつくと「いい匂い」とか「くさっ」とかの匂いが分かる。
舌の上に分子が乗ると、味蕾というケミカルなセンサーがはたらいて化学的な反応を起こして味が分かる。
皮膚の表面や筋膜に電気的なセンサーがあって身体感覚が分かる。
脳ではニューロンが発火作用して、判断ができたり記憶がよみがえったりする。
これら眼・耳・鼻・舌・身・意を「六根」といって、外と内の情報を受け取る6つの窓です。
坐禅の時には、この六根を開放しています。自分の都合で窓を開けたり閉めたりしないし、センサーの感度を上げたり絞ったりせずに、そのままにしておく。こういう行ないを「非思量」というわけです。自分の思いでもって感覚器官を自分のために使わない、ということです。
このようにして見てくると、坐禅はまさに「自受用三昧そのもの」であって、自受用三昧を最も純粋に行じていると言えるでしょう。
「弁道話」の最初の段落に、「すなはち自受用三昧、その標準なり。」とあって、いのちのあり方のスタンダードである自受用三昧を基準にして坐禅を行なう、というわけです。
その後に「この三昧に遊化するに」とあります。端坐参禅を「仕事にしてはいけない」わけです。仕事にすると「進歩」の方向へ行ってしまうので。仕事にする必要はなくて、「ただ受け取って、用いればいい」というだけのことです。端坐参禅を行なって何かを得ようという話ではなくて、それそのものを愉しめばいい…というのが「遊化」です。「生かされて生きていることを愉しみなさい」というメッセージです。
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7. 第一義的接触・第二義的接触
人生が始まる原点にあるのが、自受用三昧です。これはすべての人に平等に与えられている。今ここに生きている限り、すべての人が自受用三昧している。
滝沢克己さんというキリスト教神学者・哲学者が晩年に提唱した思想に、神と人との関係についての「純粋神人学」というものがあります。
道元さんの言う「自受用三昧」が初めからすべての人に平等に与えられている…というようなことを、この純粋神人学的に言うと
「第一義的接触」
といいます。「接触」というのは、神と人とがそこで触れあっているということです。すべての人が平等に"神の力に支えられて生きている"という点では、イエスであろうがブッダであろうが、私たちであろうが、すべて同じです。
ところが、人間の場合は、神と人、自受用三昧と私たちがもともと接触しているにもかかわらず「接触していない」と思い込んで、「あっ、接触しなきゃ」と思って、上に行ってしまうのです。接触が見失われてしまうのですね。接触がなくなることは絶対にないのだけれど、接触がなくなったかのような生き方をしてしまう。接触が切断されているという「夢」を見てしまう。
そういうことを、キリスト教では「原罪」と呼んだり、仏教では「無明」と言ったりするわけです。これは人間として生まれた以上しかたがない。
「無明」というのは、「(自受用三昧と私が接触していることを) 知らない」という意味ではなくて、「自受用三昧と私は、離れているようにしか見えないではないか!」と「(積極的に)誤解してしまう」ということです。
なので、接触をもう一度取り戻さなければいけない。これを、
「第二義的接触」
といいます。
第一義的接触を回復して、「夢」から覚めることによって原罪を乗り越え、無明を「明」に変えて、第二義的接触を生きる。これを完全に成就して、その生き方を具体的に示すことによってすべての人を第二義的接触へと誘っている人たちが、イエスでありブッダである。この点においてキリスト教と仏教は同じである。
…というのが、「仏教とキリスト教の対話」という大きなテーマにおいての滝沢さんの立場です。
仏教ではすべての人がブッダになる可能性をもっていると説かれます。
「第一義的接触の切断の夢」から目覚めて、第二義的接触に基づいて、原点に還って生きようと立ち上がったのが「菩薩」で、それを完全に成し遂げたのがブッダということになります。
ほんとうのブッダは「フルタイム」で接触していますけれど、私たちは「パートタイム・ブッダ」と言えるかもしれませんね。そのパートタイムを1分、2分、3分…と拡げていくことが私たちの努力ということになります。
私たちは、自受用三昧から離れたことは一度もないので、安心していいのです。「悩む」ことも、自受用三昧のお陰さまで悩むことができる。
"自受用三昧が何だか分からない…"と悩むことも、私が言った「自受用三昧」という言葉を聴いた脳のニューロンが発火して、「うーん、分かんない……」と言っているだけの話です。
大丈夫です。
そこには絶対の安心がある。
安心して、悩んでください。
自受用三昧は、考えることではなくて、「味わうもの」だということです。今起きていること、重力を味わう、空気を味わう、音や光を味わう。当たり前のことを当たり前にするだけです。子どもはそれを純粋にやっていますよ。
「ひとかどの人間にならなければいけない」という観念。
"ひとかどの人間"というのは、いつでも先に見渡されていますよね。
「いまの私はまだまだ"ひとかど"ではない」とか、 いま既にひとかどだったとしても、「"もっとひとかど"にならなくては!」とか。
いつでも先へ先へと急いでいるから、いま起きている自受用三昧という事実が、いつでも置き去りにされている、あるいは軽視されてしまっている。それを受け取るに値しないと思っているにもかかわらず有り難く与えられている第一義的接触を忘れてしまっているわけです。それで「あれがない、これがない。あれがほしい、これはいらない」といろいろな文句を言っているのが私たちの凡夫的な生き方です。
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8. 懺悔と誓願
"過去"を振り返った時に、第一義的接触が与えられているにもかかわらずそれを忘れて生きていたな、という反省が「懺悔(さんげ)」。
"未来"を展望した時に、その反省に基づいて、次は、あるいはいまここから、第一義的接触の表現として自分の人生を活かしていこう、という誓いが「誓願」。懺悔と誓願を行なう"現在"が、過去と未来を統一した形として豊かに考えられている。
私たちは、過去のことについての「後悔」と、未来のことについての「思い煩い、心配」で、現在を犠牲にしている。これが、第一義的接触を忘れた生き方です。
「懺悔と誓願のモード」でライフデザインするか、
「後悔と心配のモード」でライフデザインするか。
このモードの違いで、ずいぶん違うデザインが出てくるでしょう。
§
9. 独在論哲学と自受用三昧
(塾生eさんのシェア)
自受用三昧の話を聴いて浮かんできたイメージとして、卵から雛鳥が生まれようとするときに、卵の外から親鳥が殻をつつくのと、卵の中から雛が外へ出ようと殻をつつくのが同時に起こる「啐啄同時」というお話をしてくださった方がいて、さらにそれを聴いた私は、「卵の中からつついているのが自分なのか、外からつついているのが自分なのか分からない…」という感覚がありました。
卵の中の宇宙から、殻を破って外へ出たらそこがまた宇宙…と言うような感覚もあったり、リラックスするような感じがありました。
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〔一照さんコメント〕
いまシェアしてくださった内容からイメージするのは…「コスミック・エッグ」というコンセプトですね。
宇宙というのは果てがないので、絵に描こうとするなら、円相を実線で描くというより、点線で囲われた円相ですね。
この宇宙の図に対して、自分をどこに描けばいいのか。
私がよく対話している、永井均さんという哲学者は、『世界の独在論的存在構造』という難しい本を書いていますが…。
この「わたし」というあり方は、独特な構造をしていて、なぜかは知らないけれど、宇宙は「いまここ」に私が立っている視点からしか見えません。どこへどんなに移動しても、「ここから」しか宇宙は見えないんですよ。
世界のこういう見え方…って、皆さんもそうなんですか?
皆さんの宇宙の見え方は私には分からないし、皆さんの見え方と私の見え方を比較することはできない…というのは分かりますか?
こういう見え方・あり方というのは、共有できないんですよ。
この「共有できなさ」が、「わたし」なのですね。
「わたし」のかけがえのなさは、異常…というか、変なんですよ。
これも「自受用三昧」なのではないか?と私は実は思っているのですよ。
「わたし」のこういうあり方というのは、否応なく与えられているものだから、しょうがないんですよ。
「なんでこうなの?」と聞いても、誰もそれに答えることはできない。
「そうだから、そうなんだ」としか言いようがない。
世界は「ここから」しか出発するしかなくて、「その手前」を問うことができない。あるいは、それを問うても意味をなさない。
言葉で考える限りそれ以上先へは遡れないような、原点的な存在が、この宇宙の中にいて、ここから宇宙が始まっている…ということなので、ほんとうは「わたし」というのは、ここに絵に書いた宇宙の図の中に描き入れることはできないんですよ。
「自受用三昧」というのは、もう一歩踏み込んで考えると、この「比類のない<わたし>の独在性」の議論に入っていくのではないかと思うのです。
永井先生が仰るには「道元は、まだそこには気づいていない」と言いますね。私はこの独在論的議論に自受用三昧を"掛け算"で絡ませたいんですよ。
永井先生はまた、「ブッダもこのことには気がついていないけれど、内山興正老師はかろうじて気がついているかもしれない」とも仰いますね。
先ほど言った「Someoneにならねば」という発想は、普通は、例えば「いまこの部屋に30人がいて、私はその中のひとり」と思うところから出てきます。
いろいろな人がいる中での「One of them」がこの私…と思っているけれど、ほんとうは、言うなれば「One of ゼロ」。「them」と「わたし」は、同格ではないから。
それをいちばん端的に示しているのは、「年老いて、病気になって、死ぬのは、このわたしだけ」ということです。誰も変わってくれないから、同格ではないんですよ。
「ほんとうのかけがえのない私」というのは、「共有できなさ」「同格ではないこと」という観点を入れないと、かけがえのなさの凄まじさ・異様さが伝わらないような気がします。
内山老師は「私が死ぬときは、世界ごと消える」と言っています。死ぬとき世界ごと消えるのなら、生まれるときも世界ごと生まれてくるし、生きているときも世界ごと生きている。こういうことが「第一義的接触」だと私は思っています。
しかし、それを忘れると、「私」と「世界」が離れていく。私が世界に働きかけたり、世界が私に働きかけたりしているように感じられて、「主」と「客」が分かれてしまっているのが、私たちの無明的考え方です。
そして「言語」がそれを強化しているわけです。「私」という言葉と「あなた」という言葉を聴くと、"私とあなたがいる"というように思っていますけれど、いまの私の「体験世界」の中からは、あなたは消せないんですよ。
内山老師の言い方だと「生命体験」と言いますが、いまの私の「ナマの体験」からすると、
「私はあなたを"生命体験する"ことにおいて生きている」し、
「あなたは私に"生命体験される"ことで存在している」。
西田幾多郎はこのことを「純粋経験」と言っていますが、そのレベルでは「自」も「他」もなく、「ただ、その体験が起きている」ということになります。
「自受用三昧」自体を説明するときには、こういった議論はあまりされないのですけれど、「自受用三昧」というのはこういう哲学の議論に関連してくると思っていて、いまはまだうまく「アーティキュレーション」できずにいますが、自受用三昧と永井先生の哲学のような議論を、なんとか「相互乗り入れ」できるようにしたい…と私は思っています。
……このあと、学習ノート④に続きます。
【No donation requested, no donation refused. 】 もしお気が向きましたら、サポート頂けるとありがたいです。 「財法二施、功徳無量、檀波羅蜜、具足円満、乃至法界平等利益。」 (托鉢僧がお布施を頂いた時にお唱えする「施財の偈」)