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【藤田一照仏教塾】道元からライフデザインへ(19/11)学習ノート③

(ここまでの11月一照塾)
オープニングの20分、定刻に間に合った人がちょっと得する、一照さんのearly bird talkの模様は、学習ノート①にて。
「道元さんにいちゃもんをつけるワーク&学道用心集講読」のpart 1の模様は、学習ノート②をご覧ください。

この学習ノート③では、ノート②に引き続いて「道元さんにいちゃもんをつけるワーク&学道用心集講読」part 2について振り返っていきます。

0. intermission - 脊椎行気法

(一照さんinstruction)
頭の上から息を吸って、背骨に息を通して、腰のところまで通していきます。吐く息は特に意識せずに、普通に吐いてください。
また新しく、頭の上から息を吸って、背骨を通して腰のほうへ向かって吸っていきます。

息の通り方が、effortfulではなくてefficientになるように。
無理やり息を通すのではなくて、もっと簡単にスーッと通るような経路を自分で微調整しながら、楽に腰まで息が通るような姿勢を自分で工夫してください。

「気がまとまっていない時、心が不安定な時、体がだるい時、疲れている時…「今のままではいけないな」という時に、椅子に座っても立っていてもいいですから、背骨に5回ほど息をゆっくり通していくと、少し調ってきて、次の一歩が踏み出せるようになる」…と、野口晴哉さんは言っておられますので、試してみてください。

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1. 禅僧行履の事

(塾生eさんのシェア)
「然れども、心に於いても、身に於いても、住すること無く、着すること無く、留まらず、滞らず。」
(心においても、身においても、そこに安住することなく、執著することなく、留まらず、滞ることがなかった)

……「安住しない」というところにこだわってしまうと、では一体何を目指したらよいのか分からなくなってしまう。学びを続けていくにあたっては、きっかけくらいはないと方向を見失ってしまうのではないかと思いました。

道元さん自身も、「正伝」とか「正しい」という言葉を使っていたりするのですが、そういう言葉も次の日には正しくないかもしれないと思うと、道元さんだって正しいということに安住しているのでは?と思いました。

〔一照さんコメント〕
確かに、もっともなご意見だと思いますね。
用心の第八は「禅僧行履(あんり)の事」
行履というのは、「行い、生活態度」のことです。

禅が大事にしているのは、何を知っているかとかどれだけたくさん理屈を言えるかということではなくて、どんな具体的な生活をしているか。
どういうふうに歩き、どういうふうに寝て、どういうふうに人と話し…というような「How、どういうふうに行為しているか」を問うているのが「行履」です。


それまでの仏教に対する道元さんからの批判は、行為に焦点を当てていないところに向けられています。道元さん以前の仏教では、理論とか教学とか、あるいは僧侶としての地位とか、そういうものを通して仏教が考えられていたのですが、そういうものでは人間を救うことはできませんよね。
「それだと、出来合いの環境の中でどうやってうまくやっていくかという話になってしまうけど、それを乗り越えようというのが仏教だったはずなのに!」というのが、道元さんの批判精神だと思います。

◆ 出離という"運動"
「仏としての行ない」というのが大事なのです。
仏というのは、超越的な人のことではなくて、人間としてのありかた、クオリティのことなので、「目覚めた人として毎日を暮らしていく」というのが仏行です。それまでの仏教にはこういう観点がなかったので、道元さんは強い語調で言っているわけです。

”目覚める”というのは、それ以前の何らかの状態から目覚めることですが、それが「無明」、夢を見ているような状態ですね。この無明の夢から覚めることを、先ほどは「出離」と呼んだのですね。

仏教ではこれを様々な言い方で表しています。出離、解脱…。仏教のテーマは、まさにここにあるのです。

"出離、出る"というのは、「何かから→何かへ」という運動です。あるいは、変容(transformation)と言ってもいいですね。同じパターンの行いがずっと続いていって、それに何かがつけ加わっていくというのではなくて、「クオリティシフト」という言い方でも表現できますね。道元さんだったら「身心脱落」。

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2. 自己牢獄を超えて

出て離れるのが出離ですから、「何から出るの?」ということを考えないといけない。そこで、今日はこういう本を持ってきました。

これは僕が翻訳した本ですが、この本をプラユキ・ナラテボーさん(タイ仏教寺院「スカトー寺」副住職)が、ボロボロになるまで赤線だらけにして読み込んでくださっていたので、「プラユキさんのために訳しました」と言いました。

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この本の英語の原題は「Buddhist Psychology」といいます。この中で説かれているのは「自分という"牢獄"からどうやって出るかというのが仏教心理学のテーマである」ということだったので、「自己牢獄を超えて」という日本語題にしました。
うちの連れ合いには、「表紙がダサい」「タイトルがネガティブだ」とか言われて、「売れるわけない」と言われてしまいましたが、実際あまり売れていないのですが(笑)、プラユキさんが高く評価してくださったので、もうそれで十分です。この本、まだ新本で出ているので、買ってくださってもいいですよ(笑)。

「何から出るか?」というイメージをはっきりさせておいたほうがいいと思うのですが、この本で言っていることは「自分というのは"防衛機制"である」ということです。

頼りになるものが何もない、諸行無常の世の中に、頼みもしないのに生まれてきてしまって、生きていかないといけない僕らは、もし原始時代に生まれたのだとしたら、サーベルタイガーや狼に追いかけられたり、他の部族に襲撃されたりして、いつ死ぬかわからないようなところを生き抜いていかないといけない。
このように、太古の昔から僕らは"生存のための脳"が発達してきたわけです。これは相当長い間続いてきたはずなので、僕らの脳神経系の中に染みついているわけです。それで、「自分は守らなければいけないものだ」という意識が自然にできてきて、自分の周りに防衛のための殻を作るようにできているのです。これを道元さんは「吾我」と呼んでいます。

唯だ暫く吾我を忘れて潜かに修す、乃ち菩提心の親しきなり。
(ただしばらく自分の名誉や利益を忘れて人知れず修行する、それが菩提心とぴったりした生き方である)
(『学道用心集』用心第一)

殻に包まれたようなイメージで自分を考えている。僕らは、世の中を生きていかないといけないので「砦」を作っているのですけど、他の面から見ると、これは「牢獄」なのです。外との交流を遮断する「壁」があるわけです。
僕らは、努力によってこの壁を厚くしていって、この壁の中で安穏に暮らしたいと願っているのだけど、その結果はどうなるのかというと「窒息」であるとこの本の著者は言っています。それから、「新しいものが何も生まれなくなる」。既に知っているものが周りにたくさんあると、安心しますよね。
オープニングで話した、ボディ・マインド・センタリングのボニーさんも、

Part of the problem is that we do things the way that we know how to do them.
(我々が抱えている問題の一部は、我々が既に知っている方法で物事を行うことにある)

これが、人間のパターンになっています。

それから、吉福伸逸さんがいみじくも言っているのは、

人間というのは、とりあえずの現状維持に腐心する動物である

ということです。

この「壁・牢獄」から出ることが、お坊さんになることではない本来の意味での"出家"で、これが「出離」なのです。

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3. 蠅取り壺の出口はどこ?

「何から出るか?」のイメージを考える時にもう一つ参考になるのは、内山興正老師の本に「砂糖を求めて入っていった砂糖壺の中にハマってしまって出られなくなっている蟻」の絵が描いてあるものがあります。

この本を読んだ時に思い出したのが、ヴィトゲンシュタインの

「哲学における君の目的は何か。蠅に蠅取り壺からの出口を示してやることだ。」
(『哲学探究』)

という言葉でした。

仏教における出離も、こういうイメージで考えてみてはどうだろうかと思っています。僕らは何にとらわれているのかということを知らなければいけません。
蠅はガラスの蠅取り壺の向こうに見える外の世界に、ガラスの壁に何度も何度もぶつかりながら真っ直ぐ外に出ようとしているのですが、自分の上にある広い出口から出ようとすることは、自分が行こうとする方向から一旦離れるように感じてしまうので、なかなか上を向くことができないのです。
今までガラスの壁に100回ぶつかってダメでも、101回目は成功するかもしれないと思いこんでしまっているのが、今までのold patternなのですね。


◆ムッラー・ナスルディンばなし
イスラム教の法話のネタによく使われる寓話に「ムッラー・ナスルディンばなし」というのがあります。ムッラー・ナスルディン(ナスルディン和尚さんというような意味)という人が主人公の笑える小噺みたいなものです。

《ムッラー・ナスルディンばなし (1) 》
ある日、友達がムッラー・ナスルディンの家に行くと、ナスルディンは汗をかきながら涙を流しながら、青唐辛子をひとつ食べては「違うなぁ…」と言いながら、次から次へと食べていた。
友達が「ナスルディン、おまえ何してるんだ?」と聞いたら、ナスルディンは「いつか甘いやつに当たるかと思って」と言った。

……あれっ?あんまりウケないですね(笑)。
唐辛子は辛いものなので、いくら食べ続けても甘いやつには当たらないんですね。でも、ナスルディンは「食べ続けていれば、いつか甘い唐辛子に当たるはずだ」と信じちゃってるわけなんですよ。

今のがウケなかったので、もう一つ話しますね。

《ムッラー・ナスルディンばなし (2) 》
ある時ナスルディンは、明るい街灯の下で四つん這いになって、家の鍵を必死になって探していた。
そこへ通りかかった友達が「鍵をどこで落としたか覚えてるか?」と聞いたら、ナスルディンは「家で落としたんだけど、家は暗いから、明るいところを探せば見つかると思って」と言った。

ムッラー・ナスルディンばなしには、僕らがついついやってしまいがちなことを戯画化したストーリーがたくさんあって、スピリチュアルの本などでよく引用されています。

ヴィトゲンシュタインの「蠅取り壺の蠅」は、このナスルディンさんみたいですよね。いくらやってもダメなパターンから抜け出して、上にある出口の方を見るということが、僕らはなかなかできない。ヴィトゲンシュタインに言わせると、僕らに広い出口の方を向かせるのが哲学の役目だというわけです。

◆ 言語の呪縛
僕らがとらわれているものについて、ヴィトゲンシュタインはどう言っているかというと「言語の呪縛」ということです。蠅取り壺の壁を作る材料が、言語です。「言語の呪縛とその解放」が、哲学のテーマだというわけです。
ヴィトゲンシュタインに言わせると、それまでの哲学というのは真実を解明するのが目的だったのだけれど、僕らは哲学の名においてそれに呪縛されているというのです。
ヴィトゲンシュタインは、哲学の役割をひっくり返してしまったのです。「哲学が用済みになるようにするのが哲学の仕事なんだ」ということで、「反哲学、哲学批判」と言われます。ヴィトゲンシュタインにとっては「哲学批判こそが哲学だ」というわけです。

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テキストに戻りますと、

心に於いても、身に於いても、住すること無く、着すること無く、留まらず、滞らず。

出離というのは「何かから→何かへ」という運動なのに、僕らは「辛いのを我慢して甘いやつに当たるまで青唐辛子を食べ続けていること」に、住して、着して、留まって、滞って…居着いてしまっているので、これを抑止(inhibit)して、新しい方向へ自分をdirectしていかなければいけないということです。

面目を黄梅に失い、臂腕を少室に断ず。

「面目を黄梅に失い」というのは、菩提達磨から数えて6番目の中国の禅マスター、六祖大鑑慧能禅師が、五祖弘忍禅師のいる黄梅山に行って、それまでの慧能さんではなくなって、ガラッと変わってしまったことを言っています。
「臂腕を少室に断ず」、これは、二祖慧可大師が達磨さんのところへ行って臂を切ったという禅の有名なエピソード「慧可断臂」のことです。

どちらも、「今までの自分を捨てた」ということを言っています。今までの自分を捨てないと、解脱にもならないし、変容が起こらないのです。今までの自分から出離するわけですから、今までどおりの自分を後生大事にして出離しよう、などと言うのは無理なんですよ。


◆ 自由 - 自らに由る、自分の足で立つ
仏教のテーマは、自由ということです。
蠅取り壺の中に閉じ込められて従来のパターンに居着いている蠅は、不自由ですよね。目覚めた人というのは、自由なんです。
自由というのは、何でも好き放題にすることではなくて、「自らに由る」

なぜ不自由なのかというと、何かに寄りかかっているからです。「住する、着する、留まる、滞る」というのは、この寄りかかりのことを言っています。昨日の答えに寄りかかったり、誰かの権威に寄りかかったり。

「自らに由る」というのは、自分の足で立つことです。何かに寄りかかったままで自分の足で立たなかったら、自由にどこへも行けませんよね。
今日の初めにも話した、ロシアの武術「システマ」の先生に「どうやってパンチを打つんですか?」と聞いたら、先生は「まず立つことですね」と言いました。「立って、ちゃんと歩いて、ちゃんと走れることです。それがあって初めてパンチがあります」。

「僕にとっては、パンチを出すことも歩くことも同じです」と先生は言っていました。僕らは、止まって踏ん張ってからパンチを出すのですが、先生は歩いているのと同じようにパンチが出てくるので、防げないんですよね。

実際のところ、僕らは自分の足で立てているのでしょうか。何かに寄りかかっているのではないでしょうか。
なので、いまシェアしてくれたところについては、ここまでお話してきたような意味で受け止めれば、そんなにいちゃもんをつけなくてもよいのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

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4. 応無所住而生其心

ここで、禅で大切にされている言葉のひとつをご紹介しておきます。

「応無所住而生其心」、読み下し文だと、「応(まさ)に住する所無くして、而して其の心を生ずべし」。"どこにも執著したり居着いたりするところがないようにして、あなたの心を生き生きと生じさせなさい"という意味です。
これは「金剛般若経」に出てくる言葉です。

六祖慧能さんは、年老いたお母さんと2人で暮らしていて、山で伐採した木で作った薪を市場に売りに行って、それで得たお金で生計を立てていたのですが、六祖さんはある時、薪を売りに行った市場でお坊さんがこの言葉「応無所住而生其心」を唱えているのを聞いた途端に、ハッと悟るところがあって、お母さんが飢え死にしないようにうまく段取りした上で、五祖弘忍さんのいる黄梅山へ行って仏門に入った…

…というエピソードがあります。

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六祖さんは、禅が中国人のものになった契機になった人ということで、非常に大事にされているお祖師さんで、この「応無所住而生其心」は、六祖慧能さんが禅に入るきっかけになった言葉として有名です。

イデオロギーにとらわれ、価値観にとらわれ、先入観にとらわれ、思い込みにとらわれている僕らは、その上で心を発して(おこして)いるのだけれど、そういうとらわれが何もなく心を生じさせることが智慧である…いうことが金剛般若経に説かれています。


◆ 言葉を生かす、自由な波になる
それが僕らの本来の心のはたらきなのですが、僕らは言語を発明してしまった。言葉は、「水を持ってきて」と言ったら油でなくて水が来るようにできているわけで、僕らは便宜上言葉を使っているのですが、その言葉にとらわれてしまうという一面もあるわけです。禅ではそこを重視しています。
言葉は役に立つけれど、それにとらわれてしまったら、蠅取り壺にハマった蠅のようになってしまう。ヴィトゲンシュタインも「言語の呪縛からの解放」を説いていて、哲学の論文などでも「禅とヴィトゲンシュタインのクロスオーバー」というテーマがよく出てきます。

禅は、言語を否定するものではありません。
言語の呪縛から脱したところで、言語を自際に使う。
先ほど使った「波と海」の喩えでも、波は否定されるものではなくて、自分が海であることを知った上で、凍りつかないで自由な波になるということです。
言葉は、生かさなければいけない。言葉に呪縛されないで、人を解放するために言葉を使う。

ブッダもそうでした。言葉を超えた世界に入ったのだけれど、もう一度そこから出てきて、人々を解放するために言葉を生かして使った人でした。
他方では、そのブッダの言葉がまた人を閉じ込める牢獄になったということもあるかもしれません。そして、それを否定するために禅が出てきて…という繰り返しだと思いますね。

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……このあと、学習ノート④に続きます。


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