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【藤田一照仏教塾】道元からライフデザインへ(19/10)学習ノート②

(ここまでの10月一照塾)
導入として皆で実習した「岡田式静坐法」ミニワークショップの模様は、学習ノート①をご覧ください。

この学習ノート②では、9月一照塾で塾生に渡されたhomeworkをシェアするグループワーク「学道用心集"分かりたい一文"のワーク」の前半について振り返っていきます。

0. 9月一照塾からのhomework

学道用心集の用心第四から第六までを読んで、「もっと分かりたいと思う一文」を選んでくる。

(一照さんから)
"分かりたい"というのは、読んで言葉の意味は分かるのだけれど、「なんでこういうことを書いてるの?」という疑問が出てくるような「もう少し聞きたい一文」を見つけてきてください。

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4人ずつのスモールグループを作って、グループ内でhomeworkをシェアして、その中から全体へシェアしてみたいもの、あるいは一照さんに質問してみたいことをグループで一つにまとめて、全体に発表する。

§

1. face-to-face transmission

(塾生aさんのシェア・質問)
用心の第五のタイトル「参禅学道は正師を求むべき事」(レジュメp.57)を選んできました。
道元さんは、宋に渡らなければ正師に出会えなかったわけですが、それを現代の私たちに置き換えた時に、どうやって正師を見つけたらよいのか、"正師に出会う"とはどんなことなのかが知りたいです。

〔一照さん回答〕
タイトルを選んできたのね?(笑)
「正師を求む」というのは大変な問題で、この第五の用心の最後のところにも、

「正師を得ざれば学ばざるに如かず。」


と書いてあります。"ちゃんとした師匠が得られないのだったら、学ばないほうがいい"と言っています。これはすごくキツいことを道元さんは言っていますね。僕もこれを初めて読んだ時に「……えっ?!」という感じでした。
これは、この言葉を文字通りに受け取るというよりは、「正師を持つということが参禅学道には決定的に大事だ」と受け取ればいいので、「じゃあ、参禅学道やめます。」というのは違うと思います(笑)。

では、なぜ師というのがそんなに大事なのか?ということですが、現代では師というのが意味をなさなくなっている時代なのかもしれない。インストラクターとかコーチという存在がそれに代わってきている。

師というのは、それ単独では成り立たなくて、弟子がいて初めて師があるわけです。「師弟関係」というのは、ほとんど近代以前の話になってきていて、これが近代以降になると「先生と生徒」という関係に変わってきています。数学の先生なら数学を生徒に教えるし、医学の先生なら医学を教えるわけです。

では、師匠と弟子との間では何がやり取りされるのか?というところに、「先生 - 生徒」関係とは大きく異なるところがあると思います。それから"様式、モード"も違うだろうし、文脈が全然違う。師弟関係というのは、仏道とか武道、芸道…「道」という文脈であらわれてくる関係と言えると思います。

師弟関係というのは、「人と人、人格と人格の出会い」という性質があると思います。先生と生徒という関係においても人格と人格の出会いということは起こるのですが、学校のことを思い出してみれば分かりますが、ここでは人格というよりは"(先生と生徒との)契約関係"とでもいうのか……。

道元禅師の頃には、先生と生徒という関係というのはなかったと思いますね。道元禅師に依れば、「正師を得ざれば学ばざるに如かず」と言うくらいですから、

「仏道が伝わるには、必ずこういった師弟関係に入らなければいけない」

ということになります。

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正法眼蔵の他の巻にも、そういうことが書いてあるものがあります。
「面授」という巻がありまして、"面と向かって授ける"という意味です。これを英語では、「face-to-face transmission」と言います。

今の時代だったら、「zoom」とか「Skype」とかがありますが、たぶんそれだとダメだと思いますね。
face to faceの意味には、「親密な関係を通して」ということがあります。親密な関係を通して初めて伝わる何かがあるということです。

僧院という場所があって、そこに、先輩・同輩・後輩という仲間と、自分がついていこうと決めた師匠が、寝食を共にして一緒に修行生活を送る、それを何年にもわたって続ける…というのが、伝統的な仏教の修行のモデルです。その中で、face to faceのトランスミッションが起きる…そういうのを、僕は「オーガニック・ラーニング」と呼んでいるわけです。

ある意味、家族の中で親が子を育てるという状況に似ていると思います。師匠と弟子がずっと同じ場所でご飯を食べたり寝たりしているわけです。僧院という"家族的な共同体"の中で育っていく…そういう関係の中で学ぶというのが、師弟関係です。

一方、先生と生徒という関係には、学校という場で、教室やテキストや時間割があって…という状況ですが、こちらは学校的学び、「スカラスティック(scholastic)ラーニング」と呼んでいます。

今の時代は、職人芸的なことでも、大工の学校とか陶芸の学校とかがあるでしょう?
僕は昔、先ほど話した漢方医の伊藤真愚先生の推挙で、我孫子の鍼灸師の横田観風先生(『鍼と禅(春秋社)』の著者)の開いていた"漢方無為塾"という私塾に一年住みついて、"住み込みの弟子"をしていましたが、そういうのを「内弟子」と言いますね。
相撲部屋なども、いわゆる"内弟子制度"ですが、仏教も似たようなものですね。僧院に入る時には、弟子の礼をとって内弟子になって"身も心も預けます"という感じです。マフィアみたいに"血の契り"みたいなことはやりませんが、それに近い儀式はするのです。

仏道のtransmissionの最後の証しとして「嗣法」というものがあって、嗣法の時には「血脈(けちみゃく)」というものを作ります。
今は赤いインクで書くのですが、昔は師匠と弟子が指を切って、出てきたお互いの血を混ぜて、ブッダから始まって何百人もの祖師方の名前がズラッと書いてあって、それを赤いラインでつないでいくのです。
最後は、自分と直接の師匠を赤い線でつないで、自分のところからまたブッダにラインが帰っていく…というものです。「親密な関係」のひとつの象徴だと思います。

今の時代では、そういう関係に入ることは難しいよね。いま言ったような意味での師匠がいる人って、この中にいる?

§


2. 弟子としてつく"つき方"の修行

(塾生bさんのコメント)
うちの合気道道場も、昔は内弟子制度をとっていました。
"食養"みたいなこともやっていて、食養の内弟子は合気道も空手も住み込みで稽古していました。そういう意味では、私の合気道の先生も"師匠"みたいな感じでした。
師匠というのは、師匠が「オレは師匠だぞ!」というのではなくて、"弟子が師匠をつくる"ということなのではないか?ということをグループで話していました。
「弟子が、"この人こそ師匠だ!"と思ったら、それが師匠になる」。
「弟子にその準備ができたら、そこに正師が現れる」。
学校でも、先生が皆の学びになるような良いことを言っていても、生徒自身がそれを受け取る準備ができていなかったら"何言ってるんだよ!"ってなっちゃいますよね。
自分が悩んで問題を抱えているところに、正鵠を射るタイミングで現れるからこそ師になるのではないか…というのは、西洋的な「Calling」にも似ているのではないかと思います。
現代では、「サーバント・リーダーシップ」という概念も提唱されていて、「あの人だから、俺は支えていきたいんだ!」と思えるのが師匠なのかもしれませんね。

〔一照さんコメント〕
これは内山興正老師の話ですけれど、「どんなに優れた人でも、完璧な人間というのはいないから、完璧な師匠などというものを期待しても見つからない。誰の目から見ても完璧な師がいる、弟子が自分を差し置いて完璧な師匠を探す…というのは、ロマンティックな考えにしか過ぎなくて、実際には、

"不完全な師匠に、弟子として完全なつき方をする"


これを目指すしかない」ということです。
完全さをどこに求めるかというと、それは師匠ではなくて、私が師につく態度のほうに完全さが求められるということです。つまり、師が完全か不完全かという問題ではなくて、問題は自分の方にあるわけです。

(塾生cさんのコメント)
内弟子ではないのですが、私は昔、お琴の先生について習っていたことがありました。先生は、ひとりではどこにも行けない人だったので、私が毎日送り迎えしていました。何かある時には必ず先生について行ったりとか、その関係性は内弟子というほどではありませんでしたが、「私を捧げている」という感じはありました。
その先生は、人格的には全然尊敬できない人でした(笑)。"いいとこのお嬢さん"だったので、ものすごくわがままだったし。
でも、「芸に関してはこの人しかいない!」と、最高に尊敬していました。だから、どんな理不尽なことを言われても、それはしょうがないと思っていました。
ただ、その先生の"大師匠"に対する姿勢とか、音楽に対する姿勢というのは素晴らしかったので、そういうところへのリスペクトはありました。

〔一照さんコメント〕
そういう"素晴らしいところを見る目"というのが大事だと思います。
それが、あなたが師匠につく、つき方の修行だったんだね。

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人間としてみたら「こんな奴!」という人もいるわけですよ。そりゃ人間だからね。その人が継いでいる法とか芸を学んでいくのだけれど、そういうものはその人の人格を抜きにしては語れないものだから、師匠と弟子の人格と人格のやり取りの中でそれを学んでいくということになるから、そこで「もう我慢できない!」と火花が散ることはあり得るわけです。

現代では、師弟関係がスカラスティック・ラーニング的な関係に取って代わられてきているから、難しい面もあると思うのですが、それこそ「師匠の褌を洗うのも修行」というのも、そこでしか伝わらないものがあるという点で大事なのではないかと僕は思いますね。

その人があまりにも「先生 - 生徒」というモードでの学び方しか知らなかったとしたら、弟子が師匠の褌を洗うというような師弟関係は、前時代的というか「ついていけない」ということになるでしょうね。

もちろん、"師弟関係の堕落形態"というのもあって、相撲部屋の一連の不祥事というのが一時期ありましたけど、あれなどはその一例でしょうね。スカラスティック・ラーニングの場である大学を卒業して角界に入ってきた人は、なかなか適応できないだろうし、師弟関係の側にもアップデートしなければならないことがあるのではないかと思います。
「先生 - 生徒関係」が"近代"で、師弟関係が"前近代"だとするならば、次の時代には、先生 - 生徒の関係と師弟関係が止揚(アウフヘーベン)されたものが考えられなければならないと思います。

このように、学び方には2つのモード・態様があって、仏教は明らかにオーガニック・ラーニング的な学び方で伝わってきているということは、押さえておいてほしいと思います。

§


3. 苦行とは? 易行とは?

(塾生dさんのシェア・質問)
☆ 今人云く、行じ易きの行を行ずべしと。この言尤も非なり、太だ仏道に合わず。(レジュメp.60)
(今の人たちは言う、"行い易い修行を行いなさい"と。この言葉は、たいへんな誤りである)」
……「難行苦行」についてですが、先月の塾では「Instead of rightness, comfort.」ということで、"快適さ"について皆で考えたのですが、それは何についての快適さなのか?という疑問があったり、難行苦行といっても、肉体的な苦行ではなくて、心についての苦行というのがここでは求められているのではないか、ということがグループで話し合われました。
また、日常の生活の中で心を調えることが大事ではあるのですが、ただ、その中に手法的な・メソッド的なことを持ち込むのはちょっと違うのではないか?という話も出てきたり。
修行にあたっては、どういった心持ちで臨んだらいいのかということを、もう少し掘り下げて知りたいと思います。

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〔一照さん回答〕
「今人云く、行じ易きの行を行ずべしと。この言尤も非なり、太だ仏道に合わず。」ここでは、道元さんの同時代の人たちの風潮について語られています。鎌倉時代には「念仏宗」というのが興ってきて、その念仏のほうの人たちから、"仏教には2つの門がある"ということが示されました。

(1) 聖道門(しょうどうもん)
多くの経典を読んで、瞑想修行に励んで…という、出家しなければできないような、ある意味"仏教のエリートコース"。
(2) 易行門(いぎょうもん)
経典をたくさん読んだり瞑想を一生懸命修行したり…ということができない人たちのために、"仏道の正門"から入れない人たちのための"救助策"のような感じで、仏の慈悲がその脇に門を作ってくれたのですね。

道元禅師の時代は「末法」の世だから、聖道門から仏道に入れる人は非常に少ないので、一般大衆は易行門から入ればいいのだ…という風潮が出てきました。
しかし、道元さんはそういう考え方には批判的な人でした。

若し事を専らにするを以て行に擬えれば、、偃臥も猶お懶きなり。
(もし、ひとつのことを専ら行うことが修行であるというなら、(行い易い修行を行えばよいということになるが)、何もしないで横になっているということでさえも、嫌になってしまうものである)

「"念仏さえ唱えておけばいい、南無妙法蓮華経だけでいい"と言うのであれば」、つまり、

「自分にとって行い易いからそれを選ぶ」という理由でそれを行う、そういう心根そのものが仏道に反している


…というのが、ここで道元さんが言いたいことでしょう。

易きを好む人、自ら道器にあらずと知れ。
(楽な道を好む者は、自分が仏道を行ずる器でないと知りなさい)

道元さんにとっては、"難しいか、簡単か"とか、"できるか、できないか"ということではなくて、「それが仏道なのだったらそれをするべき」という、非常に優等生な考え方を持っています。もちろん、道元さん自身は優等生だなどとは思っていなくて、「それこそが仏道だ」と思っているだけのことですけど。


◆ 難行苦行の誘惑
それから、「難行苦行」についてですが、これはブッダもかつて難行苦行をしたわけです。難行苦行というのは何が"難"なのかというと、一般的には、"人が苦しくて我慢できなくて逃げ出してしまうようなことを、あえて自分がやる"というのが難行苦行の意味なのですが、そこには「報酬が得られるから難行をやる」という心理があります。
難行苦行をすると「オレにできないことをやっていて、すごいな!」と、皆が感心してくれますよね。このように、「他の人の目を意識して難行苦行する」という根深い誘惑がここにはあります。そういうことをしている人が全員、そういう心を持っているとは言いませんが、正直言って僕も「他の人ができないことをやっている俺はすごいんだ、偉いんだ!」ということを思っていたことがありましたよね。「難行苦行をやっている自分」ということが、密かなかたちでアイデンティティになっていることがあるわけです。


◆ 心操・身行を調うるのこと尤も難し
しかし、道元禅師はこの「用心第六」のこの後のところで書いているのですが、"一見難しそうで苦しそうな修行よりも、もっと難しいことがある"と言っています。それは「心操と身行を調える」ということです。

観ずるに、骨を折り髄を砕く、亦た難からざらんや、心操を調うるの事尤も難し。長斎梵行も亦た難からざらんや、身行を調うるの事尤も難し。
(思うに、骨を折り髄を砕くような肉体的に過酷な修行も難行であろうが、心を調えることのほうがとりわけ難しい。日中一食の食事や欲望を離れる戒律を厳しく守ることもまた難しいことであろうが、一々の所作や日常の一挙手一投足を調えることのほうがさらに難しい)

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仏教でもほかの宗教でも、昔から"過激な修行"というのはけっこうあったわけで、そういうものが世間一般の"厳しい修行"というイメージにつながっているわけです。
しかし、ブッダを見れば分かりますが、ブッダになるまでにはそういう難行苦行をやったかもしれませんが、ブッダになってから後にはやっていないわけです。普通の生活を淡々と、現代の言葉で言うなら、"マインドフルに、コンパッションをもって"やっただけのことで、ブッダになって以降は、何か特別な荒行みたいなことはやっていないのです。そこに着目しなければいけませんね。

そういう難行苦行よりも、「心や行いを調えること」のほうがよほど難しいとここでは言っています。「ものをあるべき場所に置く」とか「他人と自分を区別しない」とか「人を見下げない」…といったことがここに入ってくると思いますが、ここに仏道の本質があるというのは、非常に健全なことだと僕は思います。

オウムを見ればわかるように、自分を傷つけ痛めつけるような難行苦行をやりたくてやっちゃう人というのはいるんですよね。
僕もむかし、「麻原に会わせますから来てください」と言われて、オウムの道場に行ったことがあります。その時は麻原には会えませんでしたが、若い女の子の信者が2人いて、ひとりはヘッドホンをつけて麻原のビデオを見ていました。もうひとりは竹刀で自分を叩いていました。
案内してくれた人に「竹刀で叩いているのは、あれは何をしているのですか?」と聞いたら、「カルマを落としています」と言っていました。
「ふとんのホコリを落としてるみたいですね」とジョークを言ったら、まったくウケませんでした(笑)。それでも彼女は真剣に竹刀でカルマを落としていました。

「ダ・ヴィンチ・コード」の小説家、ダン・ブラウンの「天使と悪魔」に、キリスト教のあるファナティックな(狂信的な)カルト集団の暗殺者が出てきますが、その人は"自分は汚れているから"ということで、快楽に溺れないようにと棘がたくさん出ているひもを身体に巻きつけています。棘に刺されることが彼には快楽になっているのだろうけど(笑)。


◆ 日常を聖化する

こういうふうに、キリスト教にも「イエスが受けた苦しみを、私も」というような感じで苦行をすることがあるわけです。
宗教というのは、そういう方向へ行きがちなのですけれど、禅の場合は「日常をどうするのか」というところに焦点を当てています。

「お粥は食べたのか? では、お椀を洗いなさい」、そういう話です。

お腹が空いたら食事をとり、疲れたら眠る。
「神通力とは何か?空中に浮遊するのが神通力ではなくて、薪を運び、水をくむことが神通力だ」というような言葉が禅にはたくさんあります。

神通并妙用、運水及搬柴。この道理、よくよく参究すべし。
(正法眼蔵"神通"巻)


それから、「平常心是道」という有名な禅語もありますね。


いわゆる難行苦行というのは、日常からピクッと飛び出して、かけ離れているのですね。そうではなくて、平常心是道というのは「日常の、ふつうの心が道だよ」ということです。こういうことは健全だと思いますし、これからの時代の宗教のありかたを示していると思います。
特別なものではなくて、日常そのものが深いところから輝き出すという方向性。日常から逃避して、特別な場所・聖なる場所に行って、日常からかけ離れた何か特殊なことをやる…ということは、やりたい人はやってもいいのかもしれないけれど、やはりこれからの宗教は、「日常の聖化」という方向へ行かなければいけないと僕は思いますね。

§


4. 但だ仏法の為に仏法を修す

(塾生eさんのシェア・質問)
☆ 但だ仏法の為に仏法を修す、乃ちこれ道なり。(レジュメp.57)
(ただ仏法のために仏法を修行する、まさにこれが仏の道のありかたである)
☆ 参学、識る可し、仏道は思量・分別・卜度・観想・知覚・慧解の外に在るなり。(レジュメp.65)
(仏道を学ぶ者は認識しておくべきである。仏道は思い量ったり、分別したり、占いをして決めたり、心を集中して念じたり、知覚したり、理解したりすることを離れたところにあるのである)
……「仏法のために仏法を修行し、仏道を学んでいる」という"状態"というのは、一体どのようなものなのか?ということを、考えれば考えるほど分からなくなってきます。

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〔一照さん回答〕
道元禅師は、この質問にどう答えるかというと、「昔の仏祖方がやった通りである」ということです。
仏道修行では、「自分勝手な取捨選択とか選り好みをしてはいけない」ということがあります。その基準になっているのは「僕のエゴ」でしかない。
僕らの普通の考えや感じ方、選り好みというのは、すべて「僕にとって都合がよいか悪いか」というのが基準になっているので、その"物差し"を使わない、

「仏道修行に自分の物差しを当ててはいけない」

と道元禅師は言っています。

僕らは、必ず"物差し"を持っているんですよね。それは「価値観」と言ってもいいし、「好み」と言ってもいいし、「都合」でもいい。それを一言で「物差し」と言っています。


◆ 黙って10年いなさい
僕は安泰寺に入る時に、先ほどもお話した内山興正老師にアドバイスをもらいに行ったことがありますが、そのとき内山老師にこういうことを言われました。

「これは君だけのためのアドバイスではなくて、誰が聞きに来ても私はこのアドバイスをしているから、そのつもりで聞いてほしい」という前置きがあって、

「やめちゃいけないよ」

と言われました。

僕みたいに、いい年をしてから発心してお坊さんになった人は、修行というものに対してロマンティックに考えていて、理想が高いので、師匠や仲間や修行道場の欠点が目につきやすい。それは無理もないことなのだけれど、そういうことを"物差し"にして、この師匠はダメだとか、あいつはダメな先輩だとか、この場所は僕の修行には物足りない…ということを絶対に思うに決まっている。修行というものを全部自分の物差しで測っている。

そういう物差しはどうせ持っているし、物差しを師匠や仲間に当ててみてしまうのだけれど、それはこっちに置いといて、"ともかく黙って10年いなさい"というのが、内山老師からのアドバイスでした。

「行者、自身の為めに仏法を修せんと念うべからず」。(レジュメp.57)
行者というのは、僕らのことです。仏教は、"信者"ではなく、行者の宗教なのです。念仏ですら「念仏の信者」とは言わないで、親鸞さんですら「念仏の行者」と呼んでいて、念仏も行なのです。

"為めに"という言葉が出てきています。基本的には「何のためでもなく」というのが大事なんですね。
僕らは普通、何かやる時に、意識しているにせよ、していないにせよ、「何かの為に」やっているわけです。その「為に」を、この後のところでは一つひとつつぶしているのです。

道元さんの当時は、お坊さんでも一般の人でも、「仏法を修めると、見返りとして何かがもらえるだろう」という期待をもってやっていた人が多かったんでしょうね。しかし、そういうことは仏教的に言うと「ペケ✖」なんですね。仏道は「無所得無所悟」でなければならない。「オレのポケットに見返りとして何か入ってくるだろう」という期待を持っている心のことを「有所得心」というわけです。
一方、「何かがポケットの中に入ってくるからやる」という動機づけでなくてそれをやる心を「無所得心」と言います。有所得心から無所得心へ「回心」させなければならない。心を転回しないといけないわけです。

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自身の為めに仏法を修せんと念うべからず、
名利の為めに仏法を修すべからず、
果報を得んが為めに仏法を修すべからず、
霊験を得んが為めに仏法を修すべからず。
但だ仏法の為めに仏法を修す、乃ちこれ道なり。

ここでは、有所得心の具体的なあり方が列挙されています。
自分の為に仏法を修するのは「ペケ✖」。
自分の為に仏法を修する…って、どういうことでしょうかね。
仏法をやっていると、評判がいいとか、信用されやすいとか。
あるいは、"仏さまに拝んでいれば、私にだけいいことが起こるだろう"みたいなことです。これって、全部「自分のため」でしょ?


◆ 物足りようの思い
内山老師のもうひとつの言い方で、

「物足りようの思い」

というのがあります。

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"欲望"と言わないで、「物足りようの思い」と言っています。
人間は、何をするにしても、意識的に行なうことのほとんどは、必ず「物足りたい」という思いでやっている。この裏には「物足りない」という思いがあるわけですね。
僕らは、いつでも「物足りていない」。その物足りていない思いを源泉にして、"物足りよう"という動機が生まれて、物足りるために手足や口や頭(思考)を動かしているわけです(身・口・意の"三業")
僕らは、何をしても、何を言っても、何を考えても、それは"物足りない"という思いの裏返しとしての"物足りたい"という動機から行っているわけです。仏教を、その延長線上でやったらダメよ!ということです。

物足りようの思い、有所得心から「路線変更」しなければいけない。
生き方の刷新が必要になってきます。

物足りようの思いがなぜダメなのかというと、「物足りることはない」からです。キリがない。終わりがない。それから、自他を傷つけてしまう。
狭い部屋の中で、皆が"物足りようの思い"でいたら、「俺が俺が」になっちゃって、ケンカになりますよね。それが国単位になったら、戦争になる。日本の軍国主義などはまさに物足りようの思い。「世界を征服しよう」ということを様々な美辞麗句で飾り立てて、皆を操って、自分のことも操って…本心からそれを信じていた人もいたのでしょうが、結果ああいうことになったわけです。だから、物足りようの思いというのは危ないのです。

しかも、この物足りようの思いというのはうまく転換していかなければならない。押さえつけてもダメなんですね。抑圧すると、必ずそれとは違うかたちとして出てくるので。
それから、無視することもできない。また、物足りようの思いに駆られて身口意を働かせてしまうと、自他を傷つけてしまう。「では、どうするのか?」というのが、仏教の問題です。それに対する答えが、「心操・身行を調える」というところにかかっているわけです。

「名利の為めに」。
道元さんは、名利をほんとうに嫌っているのですね。多分、道元さん自身の中にも名利の心があるのを知っていたからでしょうね、だから余計に敏感になる。
名利の"名"は、名誉・評判。"利"というのは、物質的な利益のことです。
道元さんの時代には、仏教は世俗的な意味でも力のある宗教だったので、仏教に関わっていると、"知識がすごい"とか"何でも知ってる"とかで名声が上がる。大きなお寺の住職ともなると、実入りもいい…とかいうことが当時はあったんじゃないですか。

「果報を得んがために」。
大体において、アジアの在家の仏教信仰者は、なぜ仏教を信仰しているのかというと、「死んだあとにいいところに生まれるため」。これが果報ですね。
むかし、NHKのドキュメンタリー番組で、チベットの人たちが五体投地しながら5年くらいかけて、故郷の村から聖地に向かって巡礼しているのを見たことがありました。そういう"五体投地の巡礼"を題材にした映画もありますね。

尺取り虫みたいにして進んでいくわけです。服もボロボロになって、顔も日焼けで真っ黒にしながら。
そのドキュメンタリー番組の中で、かなり高齢の女性の巡礼者に記者がインタビューしていました。

記者「どうしてこんなに時間と労力をかけて、こんなことをやっているのですか?」
巡礼者の女性「死んだあとに、いいところに生まれるためです」

これがまさに「果報の為に仏法を修する」ですね。
神社仏閣でお賽銭をあげているほとんどの人は、「良縁に恵まれますように」とか、「病気がよくなりますように」という願い事をしていますよね。純粋に"礼拝"のためだけにやっている人はいないんじゃない?
「うーん、ここは奮発して500円!」とか言って…ほんとうに信じているのか?と思ってしまいますね(笑)。こういうのはみんな果報で、道元さん的には「ペケ✖」です。

「霊験を得んがために」。
これも多いでしょうね。道元さんの時代には、仏教に対して神秘的なイメージを持っていた人も多かったんでしょうね。鎌倉時代以前は、密教が盛んでしたから、護摩行で火を焚いたり、滝に打たれたり…という行があったから、そういうことをやっていると、何か超能力的なパワーが身についたり、未来が見えるようになると思われたんでしょうか。
未来が見えるとお得でしょうね、どの株が将来上がるか分かるし、競馬でどの馬が勝つかも分かるから、大金持ちになっちゃいますから、霊験は欲しいですよね(笑)。あるいは、人の心を操れる…きれいな女の人をこっちに向かせるみたいな。
出した例が僕の品性を引き下げていますけど(笑)。
坐禅したらそうなるかな…と、思ったことはないですよ(笑)。
これだけ列挙してしまったら、仏法を修するほとんどの動機はペケ✖になってしまうわけです。


◆ 仏制に従って暮らす
最後に挙げられているのが、質問にもあった「仏法の為に仏法を修する」。
仏法で何をすべきかということは、道元さん的にはもうすべて明らかなのです。うんこのしかたから顔の洗い方、歯の磨き方まで全部決まっている。それから、何をしていいか、何をしてはいけないかも、戒律で全部決まっている。

「仏教がそう言っているから、その通りにやる」

それ以外のことはなくて、それがいいか悪いかというのはないのです。これが、仏法の為に仏法を修す。道元さん的には、これで解決しているわけです。道元さんがまとめた修行道場の規則「永平清規」にも書いてありますし、正法眼蔵の「洗面」とか「洗浄」という巻にも、顔の洗い方やトイレの使い方などが細かく定められています。

こういうのを「仏制」(仏が定めたやり方)というわけです。
きょうの初めの"岡田式静坐法"の岡田虎二郎さんの言葉「まあ黙ってお坐りなさい」ではないですが、「ブッダが言った通りにしなさい」というのが、「"但だ仏法の為めに仏法を修す"とはどういうことですか?」という質問に対する端的な答えになるでしょう。

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例えば、アメリカの人たちは「Why?何でですか?」と聞くのが習いになっているわけですが、「仏法に"Why?"はないんです」というと、驚かれてしまいますね。「ブッダが言った通りにするのが"仏法の為に仏法を修する"ということだ」というと、「Oh my God !!」(笑)。


◆ 法に則って生きる
宗教には、こういうことがありますよね。
自分という存在を超えた"法則"というものがあります。
僕らは、いま普通に法則というと「科学的な法則、自然法則」のことを指すわけですが、昔の人の考え方は、神様でもいいし、宇宙の創造者でもいいのだけれど、ダルマ(Dharma)でもいいですが、宇宙には従うべき法(のり)というものが必ずある…ということです。Dharmaという語には「規則」という意味もあります。

この宇宙というのは、デタラメに動いているのではなくて、必ず"規則"に従って運行している。
手に持っているものを放せば、落ちる。
火をつけたら、燃える。
叩いたら、痛い。
そういう"規則"に従って生きる。「Dharma(法)に則って」というのが"法則"ですからね。こういうことが、古代インドの様々な宗教に通底するエートスでした。

§


5. 「型」- 無所得心への回心デバイス

(塾生bさんのコメント)
この前、イタリアとフランスで合気道をやってきたのですが、日本人は「型」を教えられた時には、型をきっちり守って、型から学ぼうとしますが、西洋の人というのは、型を学ぶ前に「こういう場合はどうするのか? 相手が蹴ってきた時にはどう対応するのか?」という"パターン、法則"をまず求める。「どういう場合にも応じられるからこそまず型を学ぶんだよ」ということを納得してからでないと、なかなか型に入っていけないということがあります。

〔一照さんコメント〕
型というのは、「有所得心から無所得心へ回心するための"デバイス"」なんですよ。なので、有所得心でもって学ぼうとしたら、型はできないようになっています。型に従うことで、有所得心が無所得心へ転換されていくということですね。

型を通っていって無所得に行ったら、型は型ではなくなって、その人のものになる。しかし、最初に有所得心から型を見ると、不自由極まりない「枠」でしかないわけです。
でも、苦労しながら型で自分を再編集していくと、型を抜けた後に自由が出てくる。これは、有所得心の上での「自由」とは全然違う<自由>、"法に則ることで顕われる自由"です。
型と有所得心が"しのぎを削る"ことで、ここを通り抜けた人には、それまで想像もしていなかったような自由というのが、恩寵として与えられる。辞めた人は、有所得心の路線の自由でとどまるしかないわけです。


◆ 守・破・離
最初は、型を守っていかないといけない。僕らには「逸脱する傾向」というのがあるわけで、それと向き合うためにこそ型があるわけですから。
ここで「師」というのは、型を通り抜けた人の例ですから、「いまは到底無理そうに見えるけど、あの人のようになれるんだったら、僕もやろう!」というように、師というのはinspireしてくれます。励ましてもくれるし、型を信じるための大きな条件になります。

型を守って、破って…「離」というのは、型から離れているのだけれど、型がないのではなくて、型とその人との距離がなくなっているのが「離」ということです。

合気道開祖の植芝盛平先生が、記者から質問を受けて、「植芝先生は、どれくらいの種類の技をお持ちなのですか?」と聞かれた時、

「技か? わしが動いたら、それが技じゃ。」

と言ったそうです。

鼻くそをほじっても、それが合気道の技……これは、いま僕がパッと思いつきで言っただけですが(笑)、そういう境地があるのです。「どの技を、どういうふうに出す」ということが忘れられているのですね。

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……このあと、学習ノート③に続きます。


【No donation requested, no donation refused. 】 もしお気が向きましたら、サポート頂けるとありがたいです。 「財法二施、功徳無量、檀波羅蜜、具足円満、乃至法界平等利益。」 (托鉢僧がお布施を頂いた時にお唱えする「施財の偈」)