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【藤田一照仏教塾】道元からライフデザインへ(19/06)学習ノート①

藤田一照さん(曹洞宗僧侶)が主宰する仏教塾、「道元からライフデザインへ -Institute of Dogen and Lifedesign」の前期第3講に参加してきました(2019年6月29日@墨田区みどりコミュニティセンター)。

(先月開催の前期第2講の模様は、こちらからご覧ください)

この「学習ノート①」では、6月塾のオープニングとして一照さんが語ってくださった「early bird talk」について振り返っていきます。

1. 耳を澄ませば - 聲なき聲を聞く(6月16日)

先ほど、桜井さん(筆者注:この塾で"ゼミ長"役を務めてくださっている桜井肖典さん)と打ち合わせをしていて、何人かの方が遅れて来るとのことで、まだ全員揃っていないので、「定刻通り来れた人に「ラッキー☆」と思ってもらえるような話をして下さい」と言われたので、前座噺ではないですが(笑)、「early bird talk」ということで、先日6月16日に「紀尾井町サロンホール」というコンサートホールで参加してきた、

「耳を澄ませば - 聲なき聲を聞く」

という催しのことを話そうかなと思います。

この催しに一緒に参加したのは、まずは小林芳樹さんといって、名古屋で精神科医としてお仕事されていて、犯罪者の精神鑑定などもされている方です。
もうひとりは、佐藤正治さんといって、音楽家で打楽器奏者の方です。
小林さんと佐藤さんと私の3人でフリートークをして、佐藤さんが打楽器でパフォーマンスをする…という催しでした。皆さんが揃うまでの間、そこでの話題を2つほどお話しようと思います。

(参考:佐藤正治さんのラジオ番組「音ってなぁに」に、一照さんと小林先生がゲスト出演された回を振り返る、番組公式Web内の記事)


2. ラカン派の精神分析

小林芳樹さんは、精神科医としてのお仕事をしながら、精神分析のセッションもされています。精神分析療法にも様々な流派があるのですが、小林さんは「ラカン派」の精神分析をなさっている、日本でも数少ない方です。

ラカン…って、知ってますか?「阿羅漢」じゃないですよ(笑)。
20世紀フランスの精神分析家・思想家のジャック・ラカン(1901-1981)という人のことです。

フランスに留学してラカン派の精神分析理論を勉強してこられて、それ以降もずっと、かれこれ10年以上と仰っていましたが、ラカンのお弟子さんにあたる人から「教育分析」というものを受けていらっしゃるのだそうです。

精神分析に対しては、日本は思想的・哲学的に高い関心を持っている国の一つで、精神分析に関する様々な書籍も多数出版されています。
それとは別に、実際に精神分析を行なうためには、クライアントの精神分析を行なう分析家は、どうしても「教育分析」を受けておかないと話にならないのだそうです。

精神分析のセッションはどうやってやるのかというと、伝統的には、「カウチ」というソファのような長椅子に患者さんが横になってリラックスした状態で、分析家は患者さんの視野に入ってこないところに座ります。

そして、「自由連想法」に基づいてセッションが進められます。これはジークムント・フロイト(1856-1939、精神分析学の創始者)が発見した手法ですが、患者さんは心に浮かんできた想念を言葉にして、それを分析家が記録していきます。分析家は、患者さんの想念に対して何も介入しないのです。ただその場をホールドしているという感じでしょうか。

患者さんと分析家の間には、もちろん信頼関係がなければ、そういうことはできないですよね。

例えば、患者さんの心にエロティックな想念が浮かんできた時に「こんなことを口に出して言うのは恥ずかしい」とか「先生に軽蔑されるのではないか」と思ってしまったら、患者さんは言わないだろうし、そもそもそういう想念が浮かんでこないかもしれない。無意識はその想念を出したがっていたかもしれないけれど出てこない…ということも起こり得る。
こういった"信頼関係の醸成"といったようなことは、自由連想法を行なう前段階というか条件づくりの中に織り込まれているのだと思います。

普段の私たちの思考には「検閲」が入っていますよね。「検閲者」という存在が、私たちの心の中にいるわけです。これは"内面化された道徳"みたいなもので、「超自我、スーパーエゴ」と呼ばれるものです。
それから「自我」があって、「イド」と呼ばれるものがあります。これは"it"というような意味のドイツ語で、名づけることができない、いわゆる「無意識」、フロイトが発見した「本能的衝動が貯まっている場所」のことです。

患者さん自身と分析家が2人で協力し合って、患者さんの無意識の中に降りていく作業をしていくわけですが、うまくやらないと、分析家は患者さんの無意識の欲動に巻き込まれてしまうし、巻き込まれるか、さもなければ無意識から想念が浮かんでこようとするのを邪魔してしまうか…患者さんに対する「立ち位置」がとても難しいのです。

分析家自身が精神分析を受けてみないと患者さんとのそういった作業はできないということで、小林さんも自ら患者さんに分析のセッションをしながら、自分も精神分析を受ける立場になる「教育分析」を受けていらっしゃるのです。

私は大学で教育心理学・発達心理学を専攻していたので、こういうことも少しは勉強していたのですが、実際に精神分析を行なっている人に会って話をしたのは、小林芳樹さんが初めてでした。今回の催しで小林さんに会うのは2回目で、初めて会った時は「なぜ"ラカン派精神分析家"みたいな人が僕に会いたがっているのか?」という興味をそそられました。

ジャック・ラカンという人は、パリ精神分析協会の会長を務めていたのですが、自分の主張があまりにも他と違ってきてしまったので、協会から追放されてしまいます。それで自ら「セミネール」という勉強会を立ち上げて自分の思想を説いていました。「セミネール」での講義録が、日本語にも翻訳されています。

ラカンは禅にとても強い興味を持っていたらしく、「セミネール」の講義録の初めの部分に禅に関する記述が出てきます。
それから、小林さんがいま教育分析を受けている分析家というのは、ラカンが弟子と認めた数少ないうちの一人だということですが、その人を小林さんが訪ねた時に「君は道元を読んでいるかね?」と言われたというのです。
向こうから道元のことを言われるまで、小林さんは道元のことは知らなかったそうで、小林さんご自身も「禅を勉強しなければ」ということで、いろいろなつながりがあって、私のところまでやってきたということです。

3. 慢性的内斜視状態と坐禅

今回の「耳を澄ませば - 聲なき聲を聞く」の催しの皮切りに、小林さんは次のようなお話をしてくださいました。

人間は"視覚的動物"といわれていて、人間が外界の情報を得る場合、その80%は視覚から得ていると言われている。脳が情報を処理する領域も、眼から得る情報を扱う場所が大きくなっていて、知覚が「視覚情報重視のモード偏重」になっている。
現代では、パソコンやスマートフォン、タブレットなどからくる映像や文字による情報が膨大で、視覚情報への偏りが遠因になって様々な症状が起きている場合がある。
他の人からどのように見られているかをいつも意識している「視線恐怖」という精神症状は、日本人に特徴的だといわれている。

催しのオープニングでの小林さんのお話で「慢性的内斜視状態」という言葉がありました。内側に眼球が寄る状態を"内斜視"というわけですが、必要に応じて人間の眼は内側に寄るわけですが、それが慢性的に内側に寄ったままになってしまっているというのです。

慢性的に眼が内斜視状態になっているという問題は、単に眼という器官だけの問題ではなくて、身体が内斜視になっていると考えられる。
身体が内斜視になっているということは、心も内斜視状態になっているということなので、これはただ事ではない問題です。

どうして内斜視になるのかというと、よく見ようとしているわけです。「細かいところまではっきり見たいという欲望」の表現ということになります。あるいは「細かいところまでよく見ないではいられない」という強迫的な衝動…。

小林さんのそのお話を聞いていて、慢性的内斜視というのはそのような欲望や衝動の表現のメタファーとして考えてもいいのではないかと思いました。

「慢性的」というのは、内斜視状態になっていることに対する意識が本人にはないということです。肩凝りと同じようなことですね。肩が凝っている人は、「肩が凝ったなぁ」と気がつく人はまだよくて、自分の肩が凝っていることにすら気がつかない…という状態で、これは感覚の完全な鈍りで、痛みがある状態よりももっとひどいということになります。その状態を「変調」というふうに認めなかったら、身体は治そうとはしません。身体はある程度の適応力がありますので、その状態が"おかしい"と思わなかったら、ある程度のところまでは辻褄を合わせてしまえるわけです。
しかし、それでいつまでもいけるわけではないので、気がついた時には「時すでに遅し」ということになってしまいますから、これはよく考えておいたほうがいい問題です。

坐禅を指導する立場から考えると、このような「内斜視状態で坐る」ということは、坐禅が向かう方向としては反対向きなのです。
坐禅というのは「外に開いていく営み」なのに、内斜視は「内側に閉じていく」わけですから、坐禅をする上ではハンデになる状態が蔓延しつつあるということになるので、よくよく考えてみなければいけない問題だと思います。


4. 太鼓のアイデンティティ

もうひとつの話題は、「太鼓って、なぁに?」という話です。
佐藤正治さんは、その催しの時には太鼓を2つか3つくらい持ち込んでいたと思いますが、こういうかたちの「ジャンベ (djembe)」という名前の太鼓を持っていました。

普通は、これのことを「太鼓」と言って何も問題がないわけです。
私たちは、名前を付けることで物事を一つひとつ区別しています。輪郭がはっきりしているものは区別できるので、ジャンベのこういうクリアな輪郭をもったフォルムのものが「太鼓というアイデンティティをもったもの」として流通しているわけです。
楽器屋さんで「太鼓ください」といったら、これを売ってくれます。売り買いされている太鼓は"これ"で、「太鼓」をGoogle検索したら、この太鼓の画像が出てくるわけです。

この催しの時に、「早めに打ち合わせするから」と言われたので早めに会場に入ったら、佐藤さんがいくつもの太鼓の音をチェックしながら、舞台上での位置を決めていました。
その時、佐藤さんがこのジャンベを打っていた時に「この部屋は低音が出にくいな」と言ったのです。私にはこの太鼓の音は聞こえていたのですが、佐藤さんにしてみれば、いつも聞こえているはずのジャンベの低音が出てこないのが分かっていたのです。

私が「どうしてですか?」と聞いたら、佐藤さんが「床が緩いんだな」と答えました。「床で音が変わるんですか?」と聞いたら、「それはもう大違いです」と。彼は太鼓を使ってパフォーマンスをするわけですけれど、床を考慮に入れないといけないということになります。「床も楽器の一部なんですか?」と聞いたら、「もちろんそうです」。

「これは話がおもしろくなってきたぞ」と思った私は、「天井は?」と聞いたら、「天井も、壁もそうです」

「それを言うのであれば、観客も楽器です。観客がどんな服装をしているかによって音が違ってきます。例えば、分厚いミンクの毛皮のようなものを着た人が観客の中にいると、ミンクの毛皮が音を吸収して、響きが変わってしまうんです」

このロジックをずっと延長していくと、"太鼓のアイデンティティ"というのは、どこまでいってしまうんでしょうか?

もっと極端なことを言うと、頭がツルツルのお坊さんばかりがいる部屋と、髪の毛フサフサの人がたくさんいる部屋とでは…?(笑)


使っていない太鼓ならまだしも、ライブパフォーマンスという"生きた場"で鳴ってはたらいている"ナマの太鼓"を考える時は、

太鼓を取り囲んでいる環境ぐるみで太鼓

と呼ばないと、事実に即した話ができないということになります。

これは、私たちも同じことなのではないでしょうか?
「法律上」とか、頭数を数えるレベルだったら「この私が私」でもいいのだろうけれど、「生きてはたらいている私」というのは、環境ぐるみで考えないと、実際と合わないことになってしまう。

私は気がついていないかもしれないけれど、私の「イド」のレベルでは、今日ここに集まってくれている人の影響が及んでいると思います。「あいつが来ていて、あの人が来ていない」ということで、もう既に私の話の「ノリ」が変わっているのだと思います。

ある心療内科に「首が右に曲がらない女性」が来診した…という話で、自分の右側に「顔も見たくない上司がいる」ということが、その患者さんと話をしているうちにわかったというのです。右を向こうと思うと身体にブレーキがかかってしまう。彼女のいま生きている身体は、その「イヤな上司が右側にいる」という環境と込みなのです。

私たちの身心というのは、環境ぐるみで考えないと、大事なことを見落としてしまうという側面もあるのではないでしょうか。

「自受用三昧」というのは、こういった「どこまでが"私"といえるのか」とか、「環境ぐるみで生きている身心」の話をする時に使えるのではないかと思います。

§

5. 塾生の質問、コメント

(塾生aさんの質問)
先ほど「坐禅は外へ開いていく営み」という話がありましたけれど、私は坐禅をあまりしたことがないのでよく分からないのですが、坐禅というと、自分の内側にどんどん入っていくというイメージをもっていましたが…。

〔一照さん回答〕
中に入る、というよりは、私は「外へ出る」、あるいは「中と外とをつなげる」という感覚をもっています。「外のことを忘れてはいけない」ということを、私は常に気をつけています。壁に向かって坐っていてもね(笑)。


(塾生bさんのコメント)
私は訪問支援の仕事で引きこもりの人の家に行ったりすることがあるのですが、部屋の半分がゴミで埋まっていて、その人にとって、部屋の外に出て自分が落ち着いていられる世界というのはないわけです。
その部屋で坐禅をしようと思ったら、坐る前にまずは掃除の仕方を一緒に覚えてゴミ出しをしてからでないと坐れないという状況もあります。そういうことを考えると、いまの時代では「自受用三昧」というのは贅沢というか、貴重なことのように思えます。

〔一照さんresponse〕
たくさんの物が片づけられない…というのは、私にとっても他人事ではないので(笑)。その人はゴミを"コレクション"しているわけではないのだろうけれど、「ゴミですら自我補強」になっているのでしょうか。
自分の家に入るのもひと苦労…という状況にまでなってくると、私にはどうしてもゴミ屋敷というのはひとつの精神症状にしか見えなくなってしまいます。

そういえば、アメリカで坐禅指導していた頃にもそういう家がありました。自動車の部品みたいなものがうず高くなっていて「くず鉄工場」みたいな風になっている家が、ヴァレー禅堂に向かう途中に一軒ありました。
話に聞いたところでは、その家の主は周りの人に「危ないから片づけなさい」と言われても一切はねつけていたそうです。

でも、そういう人に興味はあります。私は「変わった人」に興味があるんですよ(笑)。もちろんそういう変わった人の中には問題がある人もいれば、逆に「どうしてそんなすごいことができるの?」ということで社会的に評価されている人もいて…普段テレビを見る時でも、ドキュメンタリー番組は興味を持って見ています。きのうたまたまテレビをつけたら「ドキュメント72時間」というのをやっていて、"断食道場"についてのドキュメンタリーでした。

"変わった人"というのは、私にとっても他人事でない"ある問題"を拡大して示してくれているから、「人間とは?」ということを考えるのにいい材料になると思います。


……このあと、学習ノート②に続きます。


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仏教的人生学研究員("通りのよい身心"探究専攻)/日本韓氏意拳学会会員(2018年より)/分からなさの間(あはひ)に雲遊萍寄する<いのち>のfootworker/藤田一照仏教塾「仏教的人生学科 一照研究室」「移動する学林」「道元からライフデザインへ」塾生(2016年度より)
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