何者であるか、を手放せ。
自分が何者なのかなんてわからなくていい、どうだっていいことだ。
他人にある程度を説明できる肩書みたいなものは必要だけど、それによって自分を語りつくすことなんてできない。だって、その肩書は、自分のほんの一部でしかないのだから。
だから、何者かになろうとして、”その肩書”を得たところで、何者かになれているのだろうか。手段としての肩書であって、目的ではないはずだ。その言葉に振り回されてしまっている、もっと言えば、他人の目を気にした言葉にすがってしまうというのは若者が通る道なのか