唯識と成人の発達理論
2024年下半期以降、三島由紀夫の小説をひたすら読んできた。『仮面の告白』、『金閣寺』といった有名どころはもちろんのこと、『英霊の声』、『鏡子の家』、『豊饒の海』全4巻などである。それ以外にも積読にはなっているが『太陽と鉄』、『美と共同体と東大闘争』など読み進めているものはまだあるのだが、平野啓一郎の『三島由紀夫論』を最後には読み切っていったんの区切りをつけるつもりだ。
ぼくが三島由紀夫を知ったのは、宮台真司の対談番組を見たのがきっかけだ。「からっぽ」をキーワードに宮台が三島を語るそのエピソードに胸を打たれた。三島は戦後日本を憂いた。「このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」と。そして、三島は革命の根拠に天皇を付置することで、日本を立て直そうとした。
ぼくはこうした類、つまり、心の拠り所といったような話題に関心がある。日本の近代化は外圧によってなされた結果、個人が育たなかったという話はよくある議論である。思い返せば、高校時代、イギリスへの修学旅行後に書いた感想文も、心の拠り所を主題とした教会や宗教についてだった。高校2年生にしては、わりかし早熟だったと思う。心の拠り所、アイデンティティはぼくの人生の主題なのかもしれない。それが理由で、上記の三島の言葉にも強烈に賛同したのだろう。そして、自身も性的なマイノリティであったということを考えると、三島も心の拠り所に関する議論に熱心だったのかもしれない。
そうこうして三島の作品を読み進めてぼくだったが、思わぬ副産物と遭遇した。それは、唯識である。三島は晩年、仏教の唯識思想への知見を深めた。唯識とは、主に仏教の唯識思想(唯識学、唯識宗とも呼ばれる)において展開された概念で、「すべての存在は意識の働きに過ぎない」という思想だ。心の拠り所に関心のあるぼくにとっては興味の引く思想だった。唯識思想の重要な概念である阿頼耶識に関する書籍も1冊読んでみたが、本業である人材開発、特に、成人の発達理論との関連性があることもわかった。今、最先端とよばれる学問も、その質は違えど、直観的に言語化した人が大昔にいたと思うと感慨深さを感じたのを今でも覚えている。
成人の発達理論において、日本で著名なのは加藤洋平氏である。氏の書籍は複数冊読んでいるが、なんと驚いたことに、加藤氏も仏教と成人の発達理論を関連づけたゼミナールを主催しているではないか。停滞期に突入したぼくにとっては、何か変化の兆しを感じる幸運だ。決して安い値段ではないが、12月開講のゼミナールから参加しようと思う。