日記 2024/05/06〜2024/05/12 『悪は存在しない』『Opus』

2024/05/06

ゴールデンウィークは娘のどんたくもあったから、がっつり今日まで休みをもらっていた。連日の疲れが溜まっていたのか、今日は気づけば11時過ぎまで眠っていた。

娘と妻は昼から言葉の教室へ。言葉の教室も今月いっぱいとのこと。あと2ヶ月くらいかと思っていたが、先生にもう今月まででよさそうだと言われたそうだ。遂に卒業だ。娘は先生に会えなくなるため寂しさを感じているようだが、卒業できるまでになったのは娘の頑張りの証であり、よかった。

僕は図書館へ行き、その後マークイズで待ち合わせることに。図書館では、先日文喫で途中までしか読めなかったボラーニョの「通話」、そして江藤敦の「アメリカと私」、寺尾隆吉の「ラテンアメリカ文学入門」、ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」を借りた。「ホモ・ルーデンス」はもう3年くらい前から読みたいと思っていたのだけれど、タイミングが合わず、ようやく今日借りることができた。

15時過ぎにマークイズ到着。すさまじい人、人、人。今日からPayPayドームでホークス戦があるのと、Zepp Fukuokaでもライブがあるらしかった。多くの人がホークスのユニフォームを着ていて羨ましく思った。今日は和田が先発。サーティワンでアイスクリームを食べたいと思っていたが、すごい行列で断念。その代わりに駄菓子屋で500円分を買っていいと伝えたら、楽しそうに駄菓子を選んでいた。GUに寄ってタンクトップやら娘の寝間着を買い、最後にスーパーに寄って帰宅。

昨夜は長く眠っていたはずが、今もずっと眠たい。寝過ぎたからだろうか。今日も図書館、マークイズと行って、計1時間くらい歩いた。このゴールデンウィークはよく歩いた休みだった。歩くこと以外運動らしい運動もしていないが、体はまだ疲れているらしい。単純に歳を取ったせいで疲れが取れにくくなっているだけかもなのかもしれない。明日からは仕事だ。明日は2週間ぶりのスペイン語教室だ。今日は早めに寝るようにしたい。

2024/05/07

ゴールデンウィーク期間中にいくつか変化があったのだが、忙しさを抜けた今日になってようやくその変化を実感している。

その一つがマンションの管理人さんが定年になり、ゴールデンウィーク期間中に退職されたことだ。現時点では次の管理人さんは決まっていなくて、決まるまでは臨時の管理人が入るといった貼り紙があった。管理人さんは本当によくしてくれて、娘のことも可愛がってくれていた。管理人さんは娘が小学生になるまで見届けられなかったことを残念がってくれていたが、僕らとしてもその姿を見てほしかった。管理人さんの最終出勤日に、娘は管理人さんへ手紙を書いて渡していた。

今日、マンションを出る前に管理人室を見ても誰もいなくて、毎朝管理人さんに挨拶することが仕事へ向かうことへのある種のスイッチになっていたのだと気づいた。家を出るときに行ってきますとは言うものの、玄関で家族以外の人、それも同じ人に挨拶をするのはとても大事なことだったんだと。

そしてもう一つは、娘が赤ん坊だった頃から使い続けてきた椅子を捨てたことだ。この椅子は姪が使っていたものをお下がりでもらったもので、だから使い古されてはいるのだが、つい最近まで娘はその椅子に座って食事をしていた。座らなくなったのは1ヶ月前くらいからで、それは机の表面が禿げてきて状態的に使うのが厳しくなってきたこともあるが、それよりも娘自身がその椅子に座るのを嫌がったのが大きい。家族以外の誰に見られるわけでもないのだけれど、年長になり、もう小さい子どもでもないのだからと、その椅子に座りたがらなくなった。娘が座らないのであれば、折り畳んでもかなりの場所を取るその椅子は、狭い我が家にとっては邪魔だ。僕としては捨てることにもの寂しさを覚えていたのだけれど、取っておいたところでという話だし、捨てることに対抗することはできなかった。で、先日粗大ゴミとして出す手続きをし、今朝が捨てる日だった。

昨日のうちに記念撮影を済ませた。粗大ゴミに出すときには僕はもう家を出ていたので最後を見届けることはできなかったけれど、外に出されたその椅子の横に娘が立ったり座ったりしたでの最後の写真が送られてきた。毎日使ってきたものが実際に捨てられるのを見るのはやはり辛く寂しかった。しかしこれから娘は僕ら大人と同じ椅子に座って食べることになる。実際のところ1ヶ月前から既にそうだったのだけれど、子ども用の椅子がなくなったことで一つ大きな変化があったのだと感じる。しかしこういう変化ひとつひとつが、子どもの成長や時間の経過を実感するきっかけとなるものだ。

さて、今日は2週間ぶりのスペイン語レッスンだ。アイスブレークの時間帯ではおそらくゴールデンウィークでしたことを尋ねられるだろう。

ゴールデンウィークでしたことの中で話題にするとすれば、やはりどんたくに行ったことになる。

娘がどんたくで踊りました。
Mi hija bailó en Festival Dontaku.

娘は舞台とパレードで踊りました。
Ella bailó en el escenario y en el desfile.

その姿をビデオカメラで録画するために、博多へ出かけました。
Fui a Hakata para tomar un video con una cámara de video.

新しく見た単語が「escenario(舞台)」と「desfile(パレード)」の2つ。なかなか使うことはなさそうだが、この機会に覚えておこう。

2024/05/08

たしかにそこに至るまでの「伏線」らしきものはあった。そのときそのことと向き合っていれば。忠告を聞いていれば。軽はずみな行動をしなければ。あとから考えて「伏線」と思われるものなんて、自分の人生においていくらでもある。しかしそれら「伏線」が本当にその結果に結びついたかなんて誰が言えるだろう。日常においても小さな判断と決断の積み重ねで、小さな決断が大きな結果になることもあれば、そのときは大きな決断と思っていたことが大した結果として表れないこともある。

映画『悪は存在しない』を観た。事前にホームページで簡単なストーリーを読んではいたが、それ以外の情報は全く入れない状態で映画館に向かった。
美しく豊かな自然。その映像を観ながら写真集『BENZO』を思い出していた。豊かな自然とともに暮らすということ、その厳しさ、そしてそれを目の前にしたときの圧倒的な美しさ。主人公である巧は口数が少ないが、直接的な言葉を発する。そのためか、そのつもりはなくても、その言葉がおとぼけのようになることもある(言葉の掛け合いの中で映画館の中で笑い声が聞こえてくることもあった)。巧以外の人物もそう多くは語らない。もっとも多く言葉が行き交うのはグランピング場を作るための説明会の場面だったはずだ。

穏やかに物語は進んで行ったが、不穏な出来事が起こる。冒頭に書いたように、その出来事に至るまでは「伏線」がなかったとは言えないが、なぜそうなったのかはよくわからない。そしてその出来事の中で巧が起こしたもう一つの出来事。映画を観終えてしばらく経つが、巧がその出来事をなぜ起こしたのかわからないままだ。一つ一つの「伏線」らしきものから想像することはできるが、本当にそれが「伏線」だったのかははっきりとしない。なぜ、どうして、そして一体どうなったんだ。映画が終わった後呆然とした。

何度か観れば釈然としないものが何かわかるのかもしれない。しかしわかることがそれほど重要なんだろうか。

終盤の出来事を自らに引き寄せて観ていたとき、あまりに恐ろしく感じた。だから、今はまだすぐにまた映画を観たいとは思えない。

映画の中で観たあらゆる映像が蘇る。余韻として残っている。この映画を観ることは強烈な体験だった。どのくらい時間を置くかはわからないが、きっとまたこの映画を観ることになるだろう。

2024/05/09

昨日は「悪は存在しない」を観た後にしばらく呆然としていたが、風呂に入っているときにあぁ「サンクチュアリ」があと3話で終わりだなぁと思って、もう観ちゃえと思って昨夜のうちに観終えた。面白かった。脚本家の金沢さんはあの金ちゃんで、最近の金ちゃんの活躍っぷりは凄まじいなぁと思った。凄まじいと言えば一ノ瀬ワタルで、僕は「宮本から君へ」で初めて一ノ瀬ワタルを知って、「宮本から君へ」のときにも強烈な印象を受けたのだけれど、「サンクチュアリ」では主演、さらに凄みが出ていた。

「La casa de papel」のベルリンシリーズを中断して「サンクチュアリ」を観たのだけれど、「サンクチュアリ」を観終えた今どうしようか。そもそもNetflixはスペイン語に触れるために契約したのだが、「サンクチュアリ」は日本の作品で、ただただNetflixを楽しんでいる。昨日最終話を観ているときに、そうかスペイン語字幕で観れば良かったのだと思ったのだけれど、楽しむばかりで最終話になるまで気づかなかった。

改めて考えてみると、Netflixでスペイン語の勉強をするには以下の方法がある。

  1. スペイン語の作品を日本語字幕で観る

  2. 日本語の作品をスペイン語字幕で観る

  3. スペイン語の作品を英語字幕で観る

  4. 英語の作品をスペイン語字幕で観る

王道の方法は「1」で、これが最もスペイン語の勉強になるのは間違いない。その次が「2」で、おそらくスペイン語の言い回しなどを勉強するには効果があるはずだ。「3」と「4」はスペイン語と英語の両方を勉強できるが、それは理想であって、「3」に関しては英語字幕で理解が追いつくかあまり自信がない。字幕のスピードも速いだろうし。が、Duolingoは英語で学習しているので試す価値はある。「4」はそもそも英語字幕なしで観ることが難しい状況ではスペイン語の字幕があったところで理解は絶望的だろう。何回か観たことのある映画であれば望みはあるが、スペイン語学習が目的なのだから「4」はなかなか難しそう。一度は試してみたいけれど。

エニウェイ、問題は次に何を観るかだ。ベルリンを観るのを再開するのがいいのかもしれないが、ベルリンは1話目は楽しく観たのだけれど、ベルリンは好きなキャラクターで観たいドラマではあるのだけれど、今は何だか気乗りがしない。「ナルコス」を観ようかと思うが、日記を書いている今はそこまでシリアスものや暴力ものを観る気分にはならない。さて、何を観ましょう。とりあえず今夜は探すところから始めないといけない。

2024/05/10

しばらくの間首の痛みはなくなっていたのだけれど、今日になってまた新たに出てきた。前回が左肩だったが、今回は右肩。もっとも今は肩の痛みはあまりないけれど、その予兆は既にあって、このまま放っておくときっと肩にまで痛みが出てくる。首と肩の境目のあたりに痛みがあって、徐々に肩の方に侵入している感があるのだ…。早い内に対処しないと長引きそう、ということで今夜急遽整体の予約をした。たぶん寝違えだ。この数ヶ月で一体何回目だろう。いよいよ枕の買い替えを検討しないと、と言いつつ、小遣いがない。

この肩の痛みが影響しているのか、頭痛も酷い。偏頭痛があるときにはブラックコーヒーやナッツを摂取すると効果があるのだけれど、今日は全く効かない。うーむ、とりあえずは整体に行って様子を見るしかない。

昨日からの2日間はホークス戦がなく、夕方からの野球を観ている時間は少し時間を持て余す。昼は2軍戦があったのでそれを観ていたが、最後追い上げそうな気配があったものの残念ながら負け。対戦ピッチャーが山下舜平大だったからなかなか厳しかったかもしれない。

ところで、最近いろいろな変化を見せている娘だが、なかなかその変化に追いつけないでいる。

娘はいつの間にか自分のことを「わたし」と呼ぶようになった。年長になって幼稚園に通うようになってしばらくしてからのことなので、年長としての自覚というのか、年長なのに自分のことを名前で呼ぶことに恥ずかしさを覚えるようになったのだろうと思う。たまに自分の名前を言うこともあるが、家でも「わたし」で通していくつもりらしく、かなり意識しているように見受けられる。

あとは幼稚園に通っている間は特にそうなのだけれど、博多弁で話すことが多くなってきた。僕は相手が九州方言で話さないと佐世保弁もあまり出てこないので、娘が博多弁で話すようになれば僕も佐世保弁で話せるようになるということで歓迎ではあるのだけれど、一度に博多弁に変わるとオッとなって慣れるまで時間がかかる。

かと思えば、昨日は「わたしは〜なのよぉ」「〜なのよねぇ」「そうなのよぉ」と変な話し方になっていて、これは昨日親子遠足でたくさんのお母さん方が話す様子を見ていてそれに影響されたからだと思っているのだけれど、さすがにその話し方には違和感がありまくりだった。

いろんなことから影響を受け、それをすぐに受け入れ使ってみる。言葉を話し、覚え、使うということはそういうことなんだと、スペイン語を勉強している身からしても
娘のそういった姿というのはとても参考になる。

2024/05/11

数ヶ月前からだが、Xを眺めていると変なポストにあたって不快な思いをすることが多くなってきた。ポストを見なければいいだけの話なのだが、なぜか読まずにはいられない。不快な思いをするポストはいずれもバズっているから表示されるので、不快であっても少なからずは興味を引く内容ではあるわけだが、それらをスルーすることができないのは情報をスルーできない、情報に踊らされてしまう弱さがあるからだと思う。現代病の一つと言ってもいいかもしれない。一方で、そう多くはないとは言えど、Xには自分にとって有益な情報にあたることもあることも確かで、だからXから完全に離れるのは今の時点では選択肢にない。

とは言え、それらの不快な情報を避けられるのであれば避けたいし、X以外にいいツールがあるのであればそっちに移りたい気持ちはある。というわけで、昨日まずはThreadsをインストールしてみた。Instagramと連携しているので、アカウントの作成は至って簡単だった。フォローもInstagramでフォローしている人たちから選択し、あとはある程度フォローしていけばお勧めで興味がありそうなユーザーが出てくきて、面白そうであればフォローするようにすればあっという間にフォローユーザーが増えた。僕がフォローしている人の大半は読書関連のポストをしているので基本は平和でそれはXと変わらないのだが、Xのように変なポストが流れてくることが今のところほとんどない。それにXと違って広告もないからそのストレスもない。あとはポストできる文字数が500文字なので、Xよりも読み応えのあるポストをしている人が多い印象だ。基本設定はXと一緒だが、細かいところがXとは違っていて、その細かい違いによって今のところThreadsはXよりもいいじゃんとなっている。まだポストはしていないが、Xよりもポストしやすい雰囲気があるので、今日のうちにでも最初のポストをしてどんどん使っていきたい。

Blueskyもインストールしてみたが、Xとあまり違わない印象で、フォローするのも面倒でアカウントを作って10分程度触ったあとで放置している。フォローする人を一から探そうにもどうフォローするか頭が働かず、なぜか最初に思い浮かんだのがtoi booksのアカウントでそれをフォローし、あとは適当にいくつか検索してフォローしただけでアプリを閉じた。Threadsをある程度楽しんだ後にインストールしたこともあるのだろうが、Xとの明確な違いを感じられず、今のところ積極的に使う理由はなさそうという印象。

思いのほかThreadsにハマってしまって、これからはもしかしたらXよりもThreadsを触る機会が多くなるかもしれないが、Xでフォローしている人の中にはThreadsを使っていない人も多いのでmXはXで使っていくことになると思う。

2024/05/12

坂本龍一の「Opus」を観た。福岡市内でも上映するかと思っていたら、福岡県内で上映するのはゆめタウン飯塚のみ。というわけで、車を出してゆめタウン飯塚へ。上映されることを知ってから上映をずっと心待ちにしていたのだが、Dolby Atmosで上映されるとのことで音響に楽しみだった。「Playing the Piano 2022」の配信も観たが、それとの違いも気になるところだった。そのときはできる限り自室の音響を整えて観たのだけれど、映画館のDolby Atmosで観るのは全く違う体験になるだろう。

映画は13時開始。途中道を間違えてしまったが、早めに家を出たので12時にゆめタウン飯塚に到着。行くまで知らなかったのだけれど、ゆめタウン飯塚はまだできたのが去年ということもあってとても綺麗な施設だった。ゆめタウン博多ほど大きくもなく、日曜でもさほど混んでいるということもなく、フードコートも快適だった。能古うどんを食べた。初めて食べたが、細麺でこしがあって美味しかった。

いつものようにコーヒーを購入し、指定のスクリーンに入った。映画館ももちろんすごく綺麗。やや後方H列の席だったが、そのスクリーン自体こぢんまりとしていて思っていたよりも見下ろす感じ。前方でも観やすそうだった。が、H列のど真ん中はもちろん良席で、10分前に席に着き、本を読みながら少しそわそわした状態で待った。

映画はクラシックコンサートさながらの緊張感溢れていた。それは坂本龍一の最後のコンサートだからというよりは、観客側の姿勢がそうだったということだ。響くのは坂本龍一のピアノの音、呼吸や服が擦れる音など坂本龍一が出している音のみ。通常の映画よりもかなり音数が少なかったので、ちょっとした音でも目立つ。だから曲の間はなるだけ音を立てないようにそこにいた観客の間で暗黙の了解ができていたようで、坂本龍一が出す音以外が聞こえることはほとんどなかった。映画館につきもののポップコーンを食べる音も聞こえない。曲の合間に咳の連鎖が起こっていたのもコンサートと同じだった。購入したコーヒーを飲むタイミングは上映中2回しかなくて、だから終わった後にコーヒーが大量に残っていた。こんな映画初めてだった。

で、肝心の映画だが、「Playing the Piano 2022」とは全く異なる内容だった。曲数も多くなっていたし、カメラワークも異なっていた。坂本龍一の表情よりも手にフォーカスされる時間が多かったように思う。

ところで、「Playing the Piano 2022」を観たときは、坂本龍一の表情の印象が強かった。これはいつもの教授の表情だが、おちょぼ口をしたり、鼻下を伸ばしていた他に、苦痛を堪えるような表情をしていて、表情が大きく変わっていたのを覚えている。先日放送された「Last Days 坂本龍一 最期の日々」を観たときに坂本龍一がそのときどのような状況に置かれていたのかを知った。抗がん剤治療の影響で、鍵盤を押すときに電気が走るような痛みが走っていたらしい。苦しそうな表情をしていたときには痛みを堪えていたのだろう。最後のコンサートと言っていたから、教授自身感極まる気持ちもあっただろうし、様々な感情が渦巻いていたのかもしれない。

「Opus」でも教授の表情は映し出され、そこでも痛みを堪えるような表情も映りはしたが、上述したように、それよりもピアノを弾く手が多く映し出された。そこから感じられたのは音を慈しむ教授の意思というのか気持ちだった。

僕は、教授のコンサートは若いときの音よりも晩年のものの方が好きだ。一音一音を響かせ、ゆっくりゆっくりと間を持たせながら弾く。「Opus」でもやはりゆっくりと弾いていて、Dobly Atmosの効果もあってか、よりいっそう一音一音が響いているように感じられた。

今回の映画の中でも特に印象に残ったのは「Solitude」「Tong Poo」「Merry Christmas Mr. Lawrence」だった。「Tong Poo」は「Playing the Piano 2022」で初めて聴いたときに鳥肌が立ったのを覚えているし、今回映画で観てもやはり素晴らしいと思ったのだが、「Tong Poo」のときに映し出された教授の口元が他の曲と比べて上がっていて、この曲を楽しんで弾いているがわかって微笑ましくなった(この「Tong Poo」は早く音源としても聴きたいから、「Opus」の曲を音源化してくれないかなぁ)。

「Merry Christmas Mr. Lawrence」は「Playing the Piano 2022」での映像がYouTubeでも公開されているしその映像を繰り返し観てきたし、過去のコンサートで弾かれたものも含めると何百と聴いてきたが、「Opus」の「Merry Christmas Mr. Lawrence」は最も心に残る演奏の一つになりそうだ。

素晴らしい映画だった。

Ars longa, vita brevis
芸術は長く、人生は短し


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