「始まる世界」にノルウェーの人間塔を想う
奇妙な話であるが、最近、追憶の奥深くに仕舞われていたノルウェー・オスロのヴィーゲラン彫刻公園の光景を頻繁に思い浮かべる。
その中でも、頻繁に記憶の底から突き上げてくるのはこの塔である。
この塔の名前は何と言うのか失念した。
ネットで調べてみれば見つかるかもしれないが、これを造った彫刻家がこれをどのように命名したかは私には重要ではない。何故なら芸術とは下記のようなものだと信じているからである。
「ART IS IN THE EYE OF THE BEHOLDER」ー「芸術は、それを鑑賞する人が、自らの主観を以て勝手に解釈するものだ」
そのお言葉に甘えて勝手に解釈させて頂くと、私にとっては概ねこのようになる。
人間模様、老若男女、玉石混交、人種生理学、愛憎絵巻、We are the world、欲望、みんなちがってみんないい、(意味はかなり違ってくるが)人柱。
表現力の豊富な方々に多少マシな形容をして頂きたいところである。
「人間模様」が自分的には一番誠実な解釈であるかもしれない。そしてこの「人間模様」はある意味ではnoteと同義語であると感じている。
それでは何故、この奇妙な塔と公園のことを思い出したのか。
きっかけはTHE NEW COOL NOTERコンテストが企画されている「始まる世界」部門である。
ここ(下記Hashtag)にはnoteの人間模様が凝縮されている。参加者の方々が自らの体験、想い、価値観を誠実に綴られている。世の中の不条理に押し潰されそうになるほど壮絶な人生を歩んで来られた方も、その中にはいらっしゃる。
THE NEW COOL NOTERコンテストの場合、該当テーマに関して、自分なりに解釈して応募をしたら審査員の方々が講評をして下さる。参加者の多くは、その講評を楽しみにして応募をさせて頂くのではないかと想像する。少なくとも私の場合はそうである。
しかし、この講評とはどのように行われるのであろうか。
数学、物理の証明などの場合には、Quod Erat Demonstrandum(Q.E.D. 証明終わり)がある。そしてそのQ.E.D.を導くためにいくつかの法則、パラメーターが提供される。
しかし、これほどの、価値観と境遇の異なる人間たちが応募する力作の数々に、審査員の方々はどのようにQ.E.D.を付けるのであろうか。評点基準があるわけでもないであろう。おそらく審査員の方々が其々の見解を絡め合って最終講評に至るのであろう。
一昨日、私はゼロの紙さんに、応募作品に関する有難い講評を頂いた。それだけではなく、ゼロの紙さんは別記事において、講評プロセスに関する興味深い舞台裏を詳しく紹介して下さっていた。その記事の中では、たまたまその日に講評を頂いた私の記事を例として下さっていた。
その舞台裏の会議室においては、たった一つの応募作品に関してゼロの紙さん、みこザウルスさん、愛加さんが長時間にわたり、真摯に討論をされていらっしゃった。
毎回テーマが替わるコンテストへの応募数は半端ではない。その応募作品、一つ一つに文学の精鋭たちがこれほど真剣に取り組んで下さっていることには考えも及ばなかった。
どの分野においても、自身のミッションを、プライドと責任を以て遂行している人達は、プロである。審査員の方々は、こちらの企画を遂行するために、怪我をされても、九時五時の営業時間のコンセプトもなく、休日も返上されて講評を綴って下さっている。
何故、審査員の方々は、そこまでの信念と自己規律に徹していらっしゃるのであろうか。その疑問への解答に一番近い宣言をこちらで見つけた。こちらは、文章を書き続けてゆきたい人、文章を介して成長してゆきたい人にとっては一種のバイブルであると思う。
そのプロたちに今回の講評、および舞台裏のお話を拝読させて頂いたあと、久しぶりに背中を強く押されたような気がした。
いい加減、あんたも「ガチ」で生きてみなよ、と。
審査員の方々、ならびにここまで読んで下さった方々、今回も本当に有難うございました。
現在の心境をビリー・ジョエル氏に代弁して頂くことにしました。
2018年の今時分訪れたノルウェー・オスロの写真が見つからないため、今回もPixabayからお借りしました。サムネイルから、Alexandra on Gutthenbach-Lindau、Sharon Ang、Jana V.M.、およびReinhard-Karl Ublacker氏からの提供でした。