母と娘
オシャレが楽しくなってきた年頃の私は、洗面所に向き合う時間がそれまでより長くなった。
自分のファッションにこだわりをもつようになった。
買い物の日は嬉しくて仕方なかった。
そこで決まって水をさしてきたのは、他でもない母親だった。
「鏡の前にいすぎ」
「派手だね」
「なにそれ」
「太ったね」
「(買い物中無表情で)疲れた」
もしこれが近所のおばちゃんに言われるくらいだったら、ほっておいてーで済ませられる話だったと思うが、母親からのそれは、辛辣だった。ただでさえ思春期はナイーブなのに。
社会に出て、しばらく音信普通が続いていたところ、久しぶりに母親に連絡をいれたら
「どしたの?お金のことか妊娠でもした?」
いや、どっちでもない。ただ久しぶりに元気にしてることを伝えてみたくなっただけだった。全く歓迎もされず、ただただ、信頼されていないんだなとショックを受けた。
そして今度は本当に妊娠が分かり笑、結婚の手続きもこれからで、いろいろと不安でいっぱいな時に一旦実家に戻って良いか聞くと、
「もう結婚して籍をいれるんだから、戻ってくるな」
と、ばっさり。
心の拠り所はなかった。過酷!
旦那家とのお顔合わせの時は、これは親のお決まり文句なのかもだけど、
「この子は本当に何もできません」
と、ほぼ、ほぼそれだけだった。
確かに家事とかそれまで無縁ではあったが、
私からすれば、社会に出てからの自分を全く知らない癖に、よくこれからお世話になる相手に、不良品を差し出すかのような、まるでワケアリ商品のご案内ができるな、とただただ悔しかった。
そしてどんどん出てくる記憶ではあるが、これだけは、というエピソードはこれだ。
まだ幼い頃、母親は私の前でこういった。
私には兄がいる。
「一番かわいいのは(兄)くん。」
なんともいえない切なさがこみ上げる。
母親よ?それはNGじゃないか?
こうして、母親という子どもにとってライフラインともいえる強固な存在の自由奔放な発言、小さな頃から認められない悲しさと悔しさは日々積もり、私の自己肯定感をみるみる奪いさっていったのは確かだ。
母親の認識と子どもの認識は異なっているかもしれない。
だけど、親が子どもの認識を無視したら育児論なんて終わりなんだと思う。
原因はいろいろあると思うけど、性格の基盤は家庭であり、家庭とはつまり多くの場合ほぼ母親との関係性なのだと思う。
母親とは適度な距離をとり、日々を過ごす今日。
もう頼ることはほとんどない。
親に対して子どもがどういう態度を取るべきか、説教くさく諭してくる人もいるけど、本当家庭によって親子のあり方はそれぞれだと思う。
だから親孝行をしよう、なんて私は気軽に言いたくない。
どんな親子にもタイミングというものがある。
お互いが少しでもお互いを思っているならば、その時はやってくる。
今年の母の日は、私にとってその時と重なった。
久しぶりに何か欲しいものはあるかLINEで聞いてみたら、びっくりした様子だったけど。
こうして、今愛する我が子と出会えたのも、あなたがいたからだね。
ありがとう。
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