見出し画像

My life story00[プロローグ~ライフミッションに出会うまで]

「自然とともに生きる美しさを、世界に。」をミッションに生きる私のライフストーリー。ここでは、普段語りつくせない私の旅路をプロローグ編、パーマカルチャー編、コーチング編の3章に分けてお届けします。プロローグ編では
高校・大学時代の私が、景色に恋してライフミッションに出会い、
・インドネシアで環境問題の現実に葛藤を抱くまでの話
をお伝えします。


「出ない杭は埋もれる」高校生活のはじまり

 今回は、私がまだ、コーチでも、パーマカルチャリストでもない、何者でもなかったころのお話しです。話は高校時代に戻ります。

 私は都立国際高校という高校に通っていました。名前が表す通り、生徒の約半数を在日外国人や帰国子女が占めている国際的な高校で、さまざまな国籍やバックグラウンドを持った同級生に囲まれていました。

 日本は、「出る杭は打たれる」文化だと言われますが、この高校では「出ない杭は埋もれる」ような、個性を歓迎する校風がありました。

 この高校の素晴らしかったところは、ただ多様性や個性を歓迎するだけでなく、それが共存する難しさを考える機会を与えてくれていたことだと思います。なかでも印象的なのが、LGBTや部落問題などの社会問題を取り上げ、実際に当事者の方々の話を聞き、理解を深めるという授業でした。

 それまで、いわゆる一般的な家庭、一般的な学校で幸運にも平和に育っていた私は、社会問題に対して、自分の考えを持つことは少なかったと思います。ニュースで知ってはいても、実際に何が起こっているのか、どう考えるべきなのか、といった考えるための基礎知識や能力が欠けていました。

 先にあげた授業では、さまざまな立場の人に話を聞くことで1つの問題に対してこうも考え方が違うものかと驚くことばかりでした。そして、そうした経験の中で、問題の本質を理解するには当事者の話を聞くことが何より重要である、と学びました。


私をベジタリアンに変えた1冊の本との出会い

 そんな中、授業の一環で、自分が関心のあるテーマについてレポートを書くことになりました。私はもともと関心のあった動物に関する社会問題について調べようと思い、図書館に赴きました。そこで、偶然手に取った本が、『死体の晩餐―動物の権利と菜食の理由』という本でした。

 なんの気なしに読み始めたその本には、当時、私がまったく無知だった畜産業界での動物の命の扱われ方が書いてありました。そこに記述されていた、非人道的な命の扱いの存在に、私は心からショックを受け、涙が止まりませんでした。

 その本には、「動物には生きる権利があり、人は美味しいものを食べたい、(または、もっと美しくなりたい、便利にしたいなど)という欲のためにそれを侵害するべきではない」ということが書かれていました。

 読み終わる頃、私はこの主張に心の底から納得してしまいました。幼いころから心を通わせてきた動物や生き物、そして自分自身の命のニーズに心を向ければ、肉を食べない、という選択以外ができなくなっていました。次の日から、私は親にこのことを伝え、ベジタリアンになりました。

 最近では、日本でもオーガニックやベジタリアン、ビーガンなどは人にもわかってもらいやすいですし、なんならオシャレなものにさえなりつつあります。ですが当時は、肉を食べない、ということが理解されず、ずいぶん肩身の狭い思いもしました。(宗教上の理由か、アレルギーかで説明しないと理解してもらえないときもしばしば。)

 それでも肉を食べない選択はゆらがず、この決断を機に動物や生き物に関する社会・環境問題への意識はさらに高くなっていきました。ただ、高校で学んできた通り、問題について理解するには現場や当事者の声を自分で見聞きすることが大事だと学んだ私は、本当の意味で自然が残る環境を、そこで生きている人たちの暮らしを、この目で見ておきたい、と思いました。

 そして、さまざまな条件で調べた結果、フィリピンのカオハガン島という島に訪れることにしました。


はじめての一人旅、「何もなくて豊かな島」

カオハガン島の白い砂浜

 高校最後の休みに訪れたその島は、東京ドーム1つ分ほどの広さで、電気もガスも水道も通っていないような場所でした。国連の定義では最貧困層と定義される程度の収入しかないはずの彼らでしたが、「何もなくて豊かな島」と言われるカオハガン島では、目の前にはいつも広い空と穏やかな海が広がっていました。

 昼間は家事や漁、手仕事をしつつ、近所の人と井戸端会議をし、夜は海を見ながらお酒を飲んだり踊ったり。そのシンプルだけれど豊かさを感じられる暮らしに無性に惹かれる「何か」があり、私は大学の夏休みにもう一度、島に訪れました。

 今度はもう少し暮らしをよく知ろうと、島の木工職人と仲良くなり作品を一緒に創ったり、ときには、仲良くなった家族に招待され、新生児の洗礼式に同席させてもらったりしました。島の暮らしや歴史をよく知るうちに、自然と隣り合わせだからこそ、大変なことも多いということが見えてきました。

 水は雨水に頼っているので、雨の質や降る量は生活に直結します。また、海ではダイナマイト漁などが横行し魚が減った時期があり、漁が続けられるよう保護区域を大事に守っていました。そうした話を聞きながら、私たちはどんなに離れていても、空と海で繋がっているということを頭でではなく、実際のこととして身体で感じることができました。

 この島での滞在で、私は島民の方々から、本でもテレビでも学べない、大事なことをたくさん学びました。そのひとつが、物質的な豊かさだけでは補えない、心の豊かさの存在です。東京で毎日見ていた、満員電車に揺られる疲れた顔のサラリーマンを(本当にお疲れ様です、と尊敬しつつ)思い浮かべながら、「本当の幸せとは何か」を考えずにはいられませんでした。


ライフミッションを受け取る

 ところでみなさんは、景色に恋をしたことがありますか?

 島を離れる前、私は最後に泳いでその島を1周しました。透き通った青に浮かぶ緑と人の営みがまじりあう島。海からみたその景色は、本当に美しく、言葉では表せない感動が押し寄せました。

 私はこのとき、この景色に恋をしたのだと思います。そして私の人生にシフトチェンジが起こりました。

 「人と自然がともに生きるこの美しい景色を、世界から失いたくない。」

 心に沸き上がってきた気持ちは、強い確信を持っていました。私のこの命は、自然と人との共存のために、この美しい景色を地球から失わないために使おう、と。これがいまの私のライフミッションの原体験となりました。


いざ、インドネシアでインターン!

 カオハガン島で、ライフミッションを受け取って帰ってきた私ですが、自分に何ができるのだろう、という無力感も同時に覚えました。まずは力をつけたいと考えた私は、自然保護だけでも、人道支援だけでもなく、自然と人との共生を目指して活動しているNPO、NGO団体を調べまくりました。

 そして見つけたインドネシアで活動する国際NGOに、その勢いのまま、「インドネシアでインターンをしたいです」、とメールを送っていました。すると有難いことに、一度話しましょうとご返信をいただき、インドネシア支局でインターンをさせていただけることになりました。

 こうして、言葉も宗教も衛生観念も、あらゆる基準が異なる国、インドネシアでの8か月間のインターン生活が始まりました。


環境問題の現実を知る

 現地にいくとまず、いろいろな活動の現場に連れて行ってもらい、話にだけ聞いていた環境問題の現場を目の当たりにしました。まず驚くのが、やはりパームオイルのプランテーションです。小高い丘から見渡すと、2,3先の丘の先まで見渡す限りパームヤシが埋め尽くしていました。

 そのほかにもインドネシアには環境資源が豊かだからこそ、自然を搾取するような事業がそこらじゅうに存在し、そこに働く人々にも様々な被害が発生していることを知りました。

 私が所属したNGOではそんななか、エビ養殖で衰えてしまった土地にマングローブを植林するプロジェクトや、環境負荷のない形で採取した蜂蜜を商品化し、地元住民の人たちの収入源にするプロジェクトなどを実施していました。

私が滞在していた村、Malasari。村の一部はクロヒョウやテナガザルが住むジャングルだった。

 そのなかで私は、インドネシアの国立公園でグリーンツーリズムを立ち上げるプロジェクトに参加しました。その土地にはもともと住民がいましたが、あとから国によって国立公園に制定されたことで、不法滞在者扱いとなり、いつ追い出されるか分からないというグレーな地域でした。

 そこで、政府側の国立公園管理局との関係を構築し、住民が安定的に収入を得られる手段としてグリーンツーリズムのコンテンツを開発する、というのがプロジェクトの内容でした。

 最初はインドネシア語もまともに話せないので、子供たちと遊びながら言葉を教えてもらい、村のおいしいものやきれいな場所を見て回り、アイデアを出す、というような日々を送っていました。

 そのうち、村の会議に同席させてもらったり、村長や国立公園長と会ったりもしながら、むらの伝統工芸やヤシ砂糖を使ったお土産の開発、日本人向けツアーの開催などをさせてもらいながら、草の根活動の楽しさや難しさを学びました。


生まれた葛藤

 インドネシアでの日々は充実したものでしたが、私の胸の中には大きな葛藤も生まれていました。インドネシアで環境問題の原因となっているパームオイルのプランテーションやエビの養殖の先にいるのはいつも、先進国出身のグローバル企業だったからです。

 そのしわ寄せが立場の弱い途上国に集まっていましたが、人々は「子供を学校に行かせたい」「家族を病院に行かせてあげたい」というごく当たり前のことのためにときに危ない橋を渡りながら、生きていました。そうした構造が見えてくる中で「先進国出身の私がここにいていいのか?」という罪悪感と責任感がまじりあった葛藤を感じるようになっていました。

 私がすべきことは、彼らを変えることではなく、まず、自分自身や先進国の消費型のライフスタイルを変えていくことなのではないか。とはいえ、今ある暮らしを棄てて質素になればいいという話なのだろうか。そんなことが可能なのか。いったい、私が向かうべき先はどこなんだろう。

 しばらくは、そんなことを悶々と考えていました。そのとき、私の目の前で、フィンドホーン・エコビレッジへの招待の電話が鳴ることになるのです。

パーマカルチャー編へ続く……


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?