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自分は何者か

昔から、自分とはどういう人間なのか、と考える時間が多い。
現在はほとんど確立しているため、昔のように悩むことはなくなった。

私は長年、何に悩んでいたのか。

悩んでいた当時は、自分でもわからず誰にも相談できず、ただ毎日モヤモヤした日々を過ごしていた。


コンプレックス

私が小学3~4年の頃、少しずつ、自分が”女の子”であることをしっかりと自覚し始めていた。それまでも女子であることはわかっていたが、性としての”女の子”という理解である。

5~6年生の頃、確実に”女子”だった。
6年生くらいからだろうか。私は人を好きになることがなくなった。好きになれなくなった。この頃から、人前では明るい性格だったが、本当はコンプレックスの塊だった。
その原因について今考えてみると、同級生も同じように成長し、異性を意識し始める年齢だったことから、冗談で言われた一言ですら傷ついていた。
「私なんかが人を好きになってはいけない。好きになってくれるわけがない。」とネガティブまっしぐら。

家でもそうである。家族には「顔が丸い」「太っている」「運動音痴」等、いろんなことを言われた。馬鹿にした言い方で。(この言い方を文字では伝えられないのが難しいところ)
※ちなみに、太っている家族に言われる。


違和感

中学に上がり、もちろん言われた言葉たちは私の中に残っている。
中学でも男女別で列を作る機会は多かった。その頃は、人を好きになることはなくとも、女子である自覚があったため、女子の列に並ぶことができた。

高校1年の初め、ここでも男女別で並ばされた。
その時担任が言ったのである。「男子はこっち、女子はこっちに並べ」
その言葉を聞いた時、私は男子ではない。しかし”私は女子だ!”とはっきり言えない気持ちでいた。女子だと思われることも変な感覚があった。
男女別の時は、”私はスカートを履いているから女子だ”、”女子の方に並んでいいんだよ”と言い聞かせていた。

その状態のまま、大学入学。
そこで選択したのは女子大だったが、女子だから、などと一切思わなかった。むしろ異性がいないため、性を意識することがないのである。

(今思えば、大学卒業するまで一人称を”私”と言うことに抵抗があった。)


変化

大学で女子しかいない環境が、私にとって楽だったのかもしれない。性について悩むことがなくなったのである。今までとは違い、男女で区別されることが一つもない。
それから少しずつ、自分が女性であることに違和感を感じなくなっていった。私の通っていた女子大は、毎日ファッションショーなのかと思うくらいファッションが好きな子がいたりして、見た目的に「私は地味だなぁ」と思うことはあった。コンプレックスは健在。オシャレする気にもなれなかった。

(大学卒業後に人生最大のダイエットに成功し、コンプレックスを打破。少しずつ人を好きになれるようになってきた。)


確信

私はそれまでも、人と違う考え方をしたりすることから、自分は何かの病気なのではないか、と調べる癖がついていた。
発達障害なのではないか、といろいろ調べたりもした。しかし当てはまらない。何なのだろうか。
当時は、病気を疑っていたために、どう調べたら出てくるのかわからなかった。

しかしある時、ついにその言葉と出会ったのである。

”LGBT”

私は小さい頃に、障害を持つ子が同じクラスにいたからか、自分と違う人に対する偏見があまりないと思う。だから、このLGBTという言葉に出会った時、それぞれが何を意味しているのか、理解しようとした。

L:レズビアン
G:ゲイ
B:バイセクシュアル
T:トランスジェンダー


さらにこれだけではないことを知り、読み進めていくと、

Q:クエスチョニング・クィア

という言葉に出会った。

Q:クエスチョニングとは、自分の性別や性的指向を決められない、迷っている状態の人。

それを読んだ瞬間、自分が何者であるのか、やっとはっきりした。長年のモヤモヤが晴れたのである。

私がLGBTという言葉に出会ったのは、まだ世間になじみがない頃で、その数年後にLGBTと公言する人が増えてきたように感じる。

しかしその頃の私が自覚している性は、女性であった。
心の性別は変化するものらしい。


性別を超えた関係でありたい

性別というのは、ほんの少し、日本と海外に似ている気がする。日本が自分(自分と似た人)、海外が他人(自分と異なる人)。
日本と海外に違いがあることは当たり前で、それらの文化を真摯に理解しようとする人もいれば、興味を持つ人、好奇な目で見る人や、差別する人もいる。国のイメージもあるだろう。しかし国のイメージが悪かったとしても、個人と話してみるとイメージが変わったりするものである。
逆に、「日本人なんだから〇〇に決まってる」みたいな言い方をされるのも、嫌な気持ちになるだろう。

女だから、男だから、という言葉が好きではない。
女だからこう生きなければいけない、という枠にはめられることも窮屈に感じる。私がしたいと思ったことが、”一般的な女性像”に当てはまることもあるが、それはたまたまなのである。


今現在、私が自覚している性は女性だけれど、相手の性別が何であれ、一人のとして、付き合っていきたい。

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