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多くを望む。

 ココアを熱湯で練っているときに、ふと、諦めたくないな、と思った。

 「生活」と「暮らし」という言葉の辞書的な意味の違いが分からなくて調べた。「生活」は泥臭く、実質的なものだという。対して「暮らし」は「生活」とライフスタイルや人生などを内包した意味らしい。「生活」は「暮らし」に含まれるし、「生活」は「暮らし」の深部ということか。よく分からない。頭がこんがらがってきた。何にせよ、私はこの「生活」も「暮らし」も諦めたくないと思った。

 26歳。私は所謂精神障害者。未だに親に生かしてもらっている。どうしてこうなった。認めたくない。何年経っても、何度大きな発作に見舞われても、全然受け止められない。結婚とか出産とか、友だちはみんなライフステージが変わっていく中で、私は意に反して足踏みをしている。今できることは何かを考えることが大事と言われる日々の中で、将来を描くことは負担になってしまうみたい。それでも、「いつか」を思い描かずにはいられない。壊れそうな心音を聞きながら、終わりのない目眩に苛まれながら、煩わしい耳痛に耐えながら、全てを無にしてしまいそうな衝動に駆られながら、私は私の「諦めたくないこと」を考えている。

 私は、自分が満足できるご飯を作りたい。冷蔵庫の中にあるものだけでサッと1品作りたい。毎日床掃除をしたい。家計簿をつけたい。お散歩に行きたい。キッチンを常に綺麗にしたい。玄関掃除を怠りたくない。排水溝をきれいに保ちたい。水分補給を怠りたくない。毎日お米が食べたい。毎日湯船に浸かりたい。厳選した食器を使いたい。緑と赤を基調としたインテリアを揃えたい。紙の本を読みたい。心踊るカラフルな服を着たい。肌に優しい素材の下着だけを揃えたい。自分にとって最高の城を持ちたい。安全地帯になってくれる車を所有したい。緑の多い場所に住みたい。自分の存在意義を感じられる仕事をしたい。自分の生活を自分で支えられるだけの稼ぎを自分で賄いたい。いつかは一生愛情を注ぐと誓い、犬と生きたい。そしてこれらの願いを「自分のお金で」叶えたい。でも、いつかは誰かと家族を作りたい。そして母になってみたい。

 最後の2つの願いは、それ以前の願いとは両立できないのかもしれない。それでも、私はどれも諦めたくない。誰かから見たら、とんでもない絵空事に見えるはず。全部全部綺麗事で、世の中そんなに甘くないと言いたくなるかもね。そんなん知らん。一度きりの人生を、私は今のままで終わらせたくない。この先、生きてさえいれば、この願いは叶えられると諦めないことが今の私の1番の薬だと言い聞かせている。

 「生活」も「暮らし」も「生きること」に違いない。だから私は、「生活」も「暮らし」も諦めたくないと思った。
 

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