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反省文とズル

世の自己破産手続きが同じフォーマットで行われているのかはわからない。しかし父がお世話になったところでは自分が手続きをするに至った経緯を書く宿題が出た。反省と決意を示す行為だ。

父が出された宿題だったが書くことが苦手な父の代わりに私が協力して書いた。はじめは協力して書くことを拒んだが、提出日が近づいても一向に向き合わず「わからないわからない」ばかり言っているものだから、私が父の心情を慮って書き、添削してもらいながらどうにかこうにか書いた。

いまでもこの件に関して納得はしておらず、こころのなかで「ズルをした」と罪悪感を抱えている。
家族として、当事者の一員として、本当に心の底から反省して事態と向き合うのなら父に反省文を自力で書かせることをすべきだったのではないか。
喧嘩になっても、手を出す喧嘩になったとしても、考えて言葉を絞り出すべきは父のほうだったのでは? と、いまでもひっかかっている。

これまでの人生と生き方を見直し、これからの人生と生き方に思慮を巡らせることが宿題の真の目的ではなかったのか。
もしそうだったとすると、私がしたことは父の為になっていない。父が今生においてずっと逃げてきたことが破産の要因のひとつと仮定するならば、最後まで避けさせることに加担したのではないか。

父が粉骨砕身、時間をかけて弁護士さんと二人三脚でするべきことだったかもしれないのに、手続きがうまくいかなかったら…と思ったら震えてきて、父が動かないことへの苛立ちと恐怖、そこから生じた自己保身のこころに負けて、手伝う道を選んだ。

折衷案で、父に添削させて気持ちを引っ張り出そうと試みたが、道理に反している自分の、父の、せめてもの努力を試みたつもりだったけれども、鬱っぽいし落ち込みで逆ギレもしやすくなっていた父にゴリゴリに抉っていく勇気は出せず、控えめな、けれど決して温和な感じじゃない時間を過ごして文章を用意した。折衷案と位置づけたものの、それは綺麗事だ。どんなに言葉を並べてもズルをした後ろめたさからは逃れられないままだ。

追記

我ながら厄介な性格だと思っている。
もう終わったことなのに、いつまでも根に持って。と。
でも、主体性をもって取り組むことが人生の舵を切ることへの誓いであり動機となるはずものだと思ったんだ。あとから調べれば、簡易裁判のときの言い分として使うものらしいことがわかるのだが、裁判という手続きをすすめるための道具としての反省文ではなく、本来、その本質は、その手順を踏むことによって破産する人間の内省を喚起し、人生を見つめ直したのち、この先の人生をどういう心がけで生きたいと願うのかを自らの意思で示すことだと僕は思うのだ。形骸化した儀礼や手続きになっているかもしれない。
けれど、そこに本質があった。と、僕は思う。
その本質を自己都合で捻じ曲げることに加担したこと、加担する弱さを出してしまったこと、そういうものであると僕は思うと伝えたが、それを聞いてなお「わからない」と項垂れて思考を放棄する姿を見たときのなんとも言えない複雑な気持ちの火が消えない。

情けなさや後悔や不安や、父には父なりの言い分と怒りと憎しみ、悲しみがあるかもしれない。それを意気消沈の殻に逃げることで、苦手だからと繰り返すことで逃げたことに、シャドウバースのユリアスが言うところの「矜持を見せろ」的な気持ちが肩透かしを食らって「つまらん」となった。
弱者でも敗者でもいい。そこに受動的ではない能動的意志を示してほしい。そういう気持ちで満たされていた。
できなくてもいいけれど、やろうとしないのは違うよね。
向き合おうとすることから逃げるのはペルソナで遊んで感動していた僕からすると許せないとなった部分もある。変に中2的な脳が働いてしまう。
普段は「べき論」は避けたほうがいいとか思っているくせに、実はそういう思考に凝り固まっているという一面にも苦悩して、いろんなことを考えて悩んだが、僕も結局は言い訳をして父のズルに加担してズルをした。

せめて僕の書いた文章をなぞりながら自己の内省のたたき台になっていたいいなとは思ったが、やってくれたかどうかは聞けていない。聞くべきことでもないだろうと思う。まぁ、考えなかったと答えられたらショックだからというのもある。と同時に僕は父を責められるほどできた人間じゃないやんけ何を偉そうに言うとるんやこのあほんだら。というセリフツッコミも入る。


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