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「理」を考える…のを諦めた

 いずれか、もうか、今のところはわからないが、「原理」と「原則」についての自己に偏ったイメージを用いて書きたいと思っている。

原理 おおもとのことわり(現象・仕組み・状態など)
原則 おおもとのルール(仕組み・状態)

として違いがあるように思っていることを土台に書いて、その上で言いたいことを書いている。のだけれど、その記事を書いている途中でふと、そもそも「理」とはなんぞや? という疑問にぶち当たった。

ことわり(現象・仕組み・状態など)と言えばいいのだが実感がわかない。

考え始めてからほぼ半日考えたのだけれど、どつぼにはまってしまった。
その夜、ツイッターでつぶやいたら親友に「それ考えすぎたらあかんやつや」と金の助言を貰った。
考えても答えが出ないことだから考えるのは一旦やめようと思う。しかしながら途中まで考えてぐちゃぐちゃになった頭の中をメモ書きを残す。

いくつかの「理」の付く言葉についての考察メモ

「理に適う」

 「理にかなう」という言葉を聞くと、僕は「そうなるものがそうなった」という雰囲気を持っている気がする。この解釈を使うと「理(ことわり)」はつまるところ「そういうもん」ということになる。
「何やよう知らんけどそういう現象や仕組みや規則性のようなものがあんねん」という状態に対して長ったらしい説明を端折るためのそれっぽい言葉が「理」であるとめちゃくちゃ乱暴に考えると結構自分的には腑に落ちた。

「理解」

 「しくみがわかる」という自己解釈をすると「理」は仕組みとも言える。
「そういうもん」という言い方を正装させたら「仕組み」になりそう。それっぽいのでそういうことにしておこうかな。

「原理」

 自己解釈的には「おおもとのそういうもん」なのだけれど、あまりにも抽象的すぎるので言い換えると「おおもとの仕組み」とか「おおもとの構造」とか「おおもとの現象」とかになりそう。ここでいう「おおもと」は「原初的」とか「原始的」というか、地球が地球になってヒトがヒトになった頃から「なんかようわからんけどそうなるものごと」が「原理」のような気がしている。

「原理原則」

 こういう書き方をすると、僕の中で「原理」は「ごく自然なルール」で「原則」は「人工的なルール」のように思えてくるので不思議だ。

「理科」

 理(ことわり)の科目だと考えると自分的にはしっくりくる。

「合理的」

 理に適ってるとほとんど同じ意味のように思うけどどうなんだろう。

「無理」

 理(ことわり)に無い。と考えるとほんまに無理やん。と感じる。不自然だから出来ない。みたいなイメージもある。何気に「理」には「自然」みたいなイメージもあるかもしれない。

あれやこれやを考えたけれども

もとろん、これだけで半日が終わったわけではない。
検索したワードもいくつかある。「原理原則・原理 原則 違い・原理とは・確証性の原理・物理法則一覧・理気・理 由来 玉の筋目」など。

考えて、少し調べて、また考えたけれど、正直わからない。
辞書的意味に少し違和感がある場合があるのだけれど言語化できない。

知識の足りない素人の思考なんて砂漠で米粒探すとき、当たりがつけられるのが知識のある人だとしたら、見当違いだとわかってても適当な探し方をするしかないのが僕だ。しかもそれを結構楽しんで没頭してしまう。

一滴の光に魅せられてイカロスみたいに限界超えて飛ぼうとしちゃう。酸欠で目眩がしたらやめとこうかなって思えるくらいには理性がある。
あれ? 理性ってなんだ? この場合だと「そうあるべきやつ」みたいなイメージだ。そうなると真理も「ほんまにそうであるべきやつ」みたいな。

何言ってんねんってやつですね。悩ましいね。ネットで色々検索しながら考えて半日過ごしたのちツイッターで嘆いたところ、親友に声をかけてもらい理性を取り戻した。思考ズハイ。しかも素人の思考ズハイだから、出来が悪いぶんだけ変に没入するということかもしれない。

無知であるからこその言語化

無知であるからこそ、言語化をする試みは楽しい。
太陽の絵を描くとき「赤」や「黄色」や「オレンジ」じゃなくてもいいように、半ば自分勝手に自由に言葉の解釈を考えたり、再定義を試みてもいいのではないだろうか。僕より自由に溢れたひとが遊べば、新しい地平が見つかることだってありえるかもしれない。

やりたくなったらまたやる。


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