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「本は友達」なのだった、という話。

おしゃべりするみたいに
本を読む
呼吸するみたいに
言葉を紡ぐ
健やかに
強かに
柔らかく。

急に、ふたたび、本を読むようになりました。
10年ぶりに。
最初の出産からこのかた、本を読むことから遠ざかっていました。正確には本が読めなくなったと言うべきかも。少し読んでみてはすぐ眠くなったり、全く内容が理解できなくて混乱したり、自分は本を読むことが大好きだと思っていた私にはなかなかのショックで、ますます本を読まなくなり、ついには「本を読むことが苦手」という烙印を自らに押すほどに。

会社を立ち上げてからというもの、身内として、経営者であるのりさん(一年中役に立ちそうな本を読みまくっている夫)のしていることを少しでもよく理解し、安心できる味方としていい話し相手になりたいと強く思い込みすぎていて、「小説だとかエッセイだとか読んでいる場合じゃない」と【経営のことがよくわかる本】とか【お金のことがよくわかる本】とか、【マーケティングのことがよくわかる本】ばかりを買って、読んでは眠くなりを繰り返した末、そういう本の中で最後まで読めたのはほんの数冊だし、読み切るころには内容のほとんどを忘れていて、「私は本当にばかになっってしまった」と心から落ち込みました。

のりさんが会社経営に明け暮れた10年と少しの暮らしが、去年あたりから変化しはじめて、のりさん自身が会社から少し離れたところで新しいことを始め、我がチーム(家族)は明らかに新しいステージに進みました。ふたたびゴールの見えない大海原に漕ぎ出した、と言うほうがふさわしい気もします。
私ものりさんも「好きなことをしていい日々」です。
のりさんは農業を始めることにして、ほんとうにあれやこれやと準備して、今度は農業の勉強に明け暮れています。感心してもしたりないほど勉強の好きな人なのです。
私はどこに行き着くとも決めないままに制作を再開しました。

となれば。
私は「勉強のために本を読む」という必要を失いました。もともと誰に求められていたわけでもないのですが。
10年に渡って積み上げられた「最後まで読みきれなかった本」「読んだのに全く内容を憶えていない本」たちを目の端にとらえながら、「好きだった方の」本を読んでみようと思いつきました。
それは、私に何も教えてくるつもりのない、本たち。
ただそこに言葉や物語が佇んているだけの、本たち。
少女の頃からずっと貪るように読んでいた小説やエッセイの類です。
起きている間中、どころか消灯時間を過ぎてもなお頭から布団をかぶり懐中電灯の光の中で、私は本の世界に浸っていたはずなのです。

昔大好きだったあの作家の本、何度も繰り返し読んだ物語を、棚から引っ張り出してこようとして、愕然としました。
それらの本を、私は「必要ない」と切り捨てて処分してしまっていました。大好きだった小説もエッセイも人生から(「いったん」とはいえ)排除しようとしていたのです。

慌てて買い直した幾冊かの本を読むにつれ、私は体じゅうの細胞が隅々まで瑞々しく潤うような、懐かしくてしあわせな気持ちになりました。
そこには共感と心安さがあって、長いこと疎遠だった気心知れた友人に再会したかのようでした。そこにあったのは紛れもなく「心地の良いおしゃべり」の感覚でした。また会えたね、という喜び。

ああ。
本を読むときに私が求めていたのは、この、共感とともに心地よくひろがる世界、こざっぱりと白くしっかりと硬い糸で編まれた繊細なレースのような美しくて潔い文章と、日常と実用からほんのすこし浮き上がるような透明で軽やかな言葉たちを味わうことなのでした。そんなこともずっと長い間忘れていたことに泣きそうです。
しかつめらしく何かを教えてくれようとしたり、私の生き方に影響してこようとする本たちから少し距離を置いて、いつかのように言葉と物語の世界に浸ろうと思います。

【追記】
好きな作家のエッセイを一編ずつ、子どもたちに読み聞かせるとすごく喜ばれるこの頃。私の好きな文章を子どもたちが真剣に面白そうに聞いてくれるのが嬉しい。新しい楽しみを見つけました。

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