F#8 月と太陽
霧雨の夜空にぼんやり浮かぶ月が好きだ。
霧というベールが月の光を大いに立てる。
夜空というキャンバスに、光の粒がどこまでも流れていく。気づけば私まで月の一部だ。
柔らかいのに力強くて、掴めないのに包まれる。
したたかで繊細な月なのだ。
晴れの日の月より風情と存在感があるなんてどこまでずるいのだろう。
テラスに出て月を眺め、雨上がりの空気を吸い込む。
ひんやりと冷たい。
さぶっ。
私はそう呟いて、腕をさすりながら部屋に戻ろうと振り返った。そこには彼が窓を閉める真似をしていたずらな笑みを浮かべる。
何歳になっても幸せってあるんだな。
そう思って私も戯けたフリをして見せる。チューニングは私の得意とするところだ。
部屋に入ると、間接照明の中でボサノバの音楽が心地よく私を通過していった。
Baby, what are your plans for tomorrow?
彼がワイングラス片手にそう問いかけてきた。
I don't know yet...as usual..
そう答えて私は彼のグラスを奪う。
私が人生を完全リセットしたのは5年前だ。
時間は増えてお金も増えた。
人生は謎だらけだ。不思議でならない。
平日と言えど自由な私たち夫婦は、次の日の予定もよくわからない。
でも私たちにはなんの心配もない。
あえて5年前に忘れてきたものがあるとするのなら、それは「心配事」である。
今世でもまたこの人と出会えたこと、そして一緒に年を重ねられることだけで、私にとっては最高の贅沢なのだ。
彼は私を照らす月だ。
それも霧の日の、したたかでいて繊細な。
あざとくも自分を太陽だと思っていた私は、彼の光によって静かに癒されて、やがて月の一部になった。
今日は2025年6月29日。
6月が終わろうとしている。
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