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書く、ということ。祈り。

「言葉は世界を変える」と言うと大げさかもしれないけど、誰か1人の救いにはなると信じてる。だから、私はだれかの幸せのために書いている。

ある先輩ライターさんのひとことが、心にギュッと刺さった。

社会にあふれる悲しいニュースを目にするたび、理不尽な事実を知るたび、こんなことを文章に書いているよりも、医者になって今苦しんでいる人の助けになれるほうが、役に立つし、救いになる、と思う。

なれるかどうかは思いっきり棚に上げておいて、政治家になったり、環境活動家になったほうが、よっぽど世のためにはたらいていると言えるのかもしれない、とも。

でも、私は医者でもなく、政治家でもなく、活動家でもない。そして、医者でもなく、政治家でもなく、活動家でもない「だれか」の言葉に、私はこれまでなんどもなんども救われてきた。

それは有名な作家さんが書いた本のときもあれば、ウェブに揺蕩うだれともわからない「だれか」のブログのときもある。だれでもない、だれか。きっと、その言葉と出会わなければ、今の私はいない。

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いつか、「書くことではじめて人と会話できた気がした」という話を書いたことがある。今でも、私の書くことの原点はそこにある。それは、人との会話もそうだし、自分との会話もそう。私は自分が知りたかったこと、ほしかった言葉をまず自分自身に向けて書いている。

自分の文章のはじめての読者は自分。

と、だれかが言っていた。

その言葉どおり、私はだれよりもまず、"わたし”という読者に宛て綴っている。そしてそれと同時に、私の綴った言葉が、自分と同じように悩んだり、モヤモヤしたり、つまづいたりしているだれか1人の救いになればと、ほんのり期待している。

そして、そんな願いをもった人たちが広がり、連鎖していけば、やがて言葉は世界を変えるのかもしれない。

でも、それを信じれば信じるほど、言葉にして発信することは、責任が重く、怖いことと同義にもなる。言葉には力があるというのを認めることは、その暴力性を自覚し続けることでもある。

それと同時に、こんなにだれにも知られていないような個人の場であっても、その責任と怖さがのしかかる。

一方で、「そんな発信なんて意味はない」「その考え方は間違っている」と心折られるように否定される可能性とも背中あわせ。

でも、それでも。これまで私が救ってもらった分、言葉がだれか1人の救いにはなれるかもしれないと、私も信じたい。だから、言葉にすることをめげずに探求する。それをこれからも地道にくりかえしていこうと思う。

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