たようせい。

 オリンピック真っ只中に多様性の話題……少しドキドキしています。ふじもnです。笑
 というのもとあるニュースで「多様性の象徴」という言葉を聞いてから何だかゾワゾワしていていっそ文殊知恵をいただくつもりで吐き出してしまおうと思ったからです。

 「多様性のある社会」「多様性を認めよう」「価値観の多様性を大事にしよう」……ビジネスシーン、学校、ニュースなどなど様々なところで目にするトピックですし、実際、私はこれらの言葉を否定したいわけではありません。「多様性」という概念、それ自体はとても崇高であって然るべきものだと考えています。

 しかし一方でこれらの言説を聞くと胸騒ぎがして心がゾワゾワと波立つような感じもします。そして私の心の中の悪魔が以下のように囁き出すのです(アニメとかのあの感じを想像してもらえれば……笑)。

--くだらない、実にしょうもない!何が多様性だ!
多様性なんて言葉がなくったって人間はそれぞれ固有の存在だ。認めてもらわなくったって大事にしてもらわなくったってもうそこにいるんだから何をとやかく言う必要がある?

 そもそも多様性なんてすごく傲慢な言葉だ。その人の性格やら特徴やらアイデンティティやらをどこかの偉い人か、はたまた自分が勝手に決めた線引きで分析して、切り取って何となく分かった気になって、
それで「はい!じゃあ、あなたのその個性は、私の規準を満たしてるので多様性として認めます!素晴らしい個性ですね!多様性はいいもんですね!」なんてスタンプをその人に押してるみたいだ。その分析結果が間違っていることとか、その人の個性の背景とか、疑う・慮る素振りもなくただ寛容な自分に自己満足してるだけじゃないか。

 100歩譲って多様性はあるとして、じゃあ「多様性を認めない」という多様性はどう処理するんだ?世の中でよく使われる「ふつう」も、法律とか生きていくためのルール作りも、多様性だって銘打って各々の価値判断に任せるのか?相対主義の問題と重なってくるけど、結局多様性という言葉のせいで自分たちの首を絞めて、余計に生きづらい世の中にしているじゃないか。

 あと、自分が「この価値観は合わないな」「これはおかしいだろ?」と思うことに「まあ、多様性の時代だしな」と蓋をするような都合のいい使い方してんじゃないよ!それは結局、価値観の共有から逃げてるだけで、多様性を認めていることにはならない。もっと言えばありのままの自分の価値観からも逃げてる。社会で上手くやるために適当に多様性って言葉を掲げて、聞こえのいい言葉を言って自分への非難や反対を躱しているに過ぎない。そこに自分はいないし、肝心の多様性もない。あるのは社会通念への迎合だ。
そもそもありのままの自分で生きることを楽にするために、他の人の多様性も認めようって話じゃなかったのか?そんな口先だけの多様性だったらいらないし、ありのままの自分で生きたいなら、もういっそのこと、誰とも関わらないで一人で生きていけばいい!多様性なんて考える必要もない、素の自分でいられる世界にでも行けばいい。

 自分の分からないことに対して多様性という言葉でレッテル貼って逃げようとするな!多様性なんて説明を与えなくてもこの世界には自分ではない別の人や価値観や概念が既に常に存在している。そこを蔑ろにして自分のいいように世界や他人を線引きするのはダメだよ。
 そんなの、全然多様性尊重じゃないし、そんなんじゃあいつまで経っても多様性が実現される世界なんて来ない。--

 という、私の心の中のこの悪魔にいつも反駁を試みるのですが、今のところ納得のいく返答には辿り着けていません。というか、多分一生かかっても辿り着かないような気はしています。笑

 長くなりましたが、是非、皆さんなりのこの悪魔の退治方法(反論・疑問など)を教えていただきたいです。

 多様性……考えれば考えるほど堂々巡りになっていくので今日はこの辺で。
 それではまた明日。

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