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心の苦しみから逃れたいとき

不幸になりたいなんて誰も思わない。
だから不幸から逃れようとすることは自然な反応だ。

そもそも不幸ってなんだろう?

不幸とは悲しみだろうか?
不幸とは不安だろうか?・・・恐怖だろうか?

そうかと思えば、好んで悲劇オペラを楽しんだり、ホラー映画や社会派の暗いドキュメンタリーを楽しんだり、身体的な恐怖を感じるジェットコースターを楽しんだりもする。

そうすると、おそらく感情と幸/不幸はあまり関係しない。

それでも、悲しみのドン底に不幸だと感じる瞬間はあるし、不安に明け暮れやりきれない夜を過ごしたりもする。心が苦しみを感じる瞬間 --- 心がモヤモヤを抱く闇から一刻もはやく逃れたいとモガイている。

見つめなきゃいけないのは不幸とはなにかではなく、心の苦しみは何によってもたらされるか?なのだと思う。

端的に言えば、心の痛みや不快はほとんどの場合、アンバランスであり不調和が引き起こす。

悲しみを感じた時に実験をしてみてほしい。
わたしは「悲しい」と想念してみる。
すると、心の痛みが増してくる。

次に、「わたしは悲しみだ」と想念してみる。
すると、悲しみの中に自分が没入するイメージが湧くのがわかるだろうか?その瞬間悲しみをただ味わい心の動機がおさまっていく感覚が起こる。

通常、悲しみという感情から逃れたいあまり、悲しいという感情を「自分ではない」ものとして表現しようとする。「わたし」と「悲しみ」は別のものであり、わたしは、悲しい、と感じている、と形容する。

ところが実際には、体のあらゆる感覚や自律神経が現実を映し悲しみを表現している。これは外的要因によって起こったものではなく、むしろあなた自身が生み出したあなたの本性。だから、悲しみを自分から分離するということは、あなたがあなた自身の本質を拒絶することでもある。

この不調和が心に苦しみの感触をもたらすのだ。

医学や生物学についてわたしはド素人となので自分の体のイメージのお話だと思って聞いてほしいのだけど、もっと言えば、わたしたちは脳によって思考している。「わたし」という個は脳によってイメージされたものに過ぎない。

そのわたしというイメージを現実に起こっている事象を感覚器官や自律神経を通して実感している。この脳の思考と神経系の伝達が人体的に交差しているのが、だいたいみぞおちの辺りにある太陽神経叢っていう器官らしい。

自律神経が感じている本能的な自己と、脳によって生み出された「わたし」という観念。この概念が神経を通して交わるのがちょうど胸のあたりなのだ。心が心臓にあるって感じているけれど、これはこの器官がみぞおちのあたりにあるからだろう。

自己の心のうつろいを観察していると、融合や調和を感じると穏やかになり、分離や拒絶を感じるとこれもまた不調和を知らせる。この不調和を解消することさえできれば、心に生まれる苦しみを開放することができる。

悲しみの原因を解消しようとしても消えはしない。それはあなたの本性であり、あなたそのものだから。

悲しみを否定せず、不安を受け入れ、わたしはそれそのものだ、と想起する時、胸のあたりに感じる苦しみは消えてなくなる。

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