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村づくり、ナカマの再生

最近、町おこしだとか、村づくりみたいな話が頻繁にされるようになってきましたよね。ずいぶん前から、ぼんやりと「村をつくりたい」という思いがわたしにはあって(それはまったく具体的なものではないのだけど)、だから、テレビなどで、関東から地方に移り住んで村おこしをしているだとか、新しいコミュニティーが生まれている、なんて話を耳にするとワクワクします。

noteには、ふんわりしたことは書かないのですが、たまには夢や妄想を根拠なくダラダラ語るのも面白いのじゃないかと思って書きはじめています。

わたしが村になぜ興味があるのかはわかりませんが、「それらしい」情報を聞きつけると、耳がダンボになって頭に残ったりします。みなさんも、そういうことありますよね?そんな頭の片隅に残った断片を思いつくままに羅列してみようと思います。興味のあるところだけつまみ食いしていってください。


「ゼロエミッション」と循環資源

きっかけは環境問題だったかもしれません。いっとき地球環境をずいぶん調べていた時期があって、アル・ゴアの『不都合な真実』とかが流行ってた時期です。ただ環境問題って思ってた以上に答えがはっきりとしないですよね。ヤバそうなのはわかるけど何がヤバいのかは専門家によってマチマチ。環境の「問題」は専門家に任せて、わたし自身はいったん立ち返ってむしろより足元の「生活様式」の方に目を向けようと思いはじめていました。

そんなころに見つけたのが、ベルギー人のグンター・パウリという起業家の「ゼロエミッション」という思想です。時代にそぐわない部分も既にあるかもしれないですが『アップサイジングの時代が来る』という書籍にとても感動したのを覚えています。

自然界は全て廃棄と再生の循環の輪によって成り立っています。生物の排泄物は別の生物の養分になり、その生物の排泄物や死骸ですら、また別の生物の養分になります。自然はそのような連鎖のなかでほんとうに多様で膨大なつながりをもって維持されています。これは現代社会の直線的な問題解決のプロセスとはだいぶ様相が異なります。この循環型のプロセスを産業構造にそもそも取り入れられないか?というのが、このゼロエミッションの考えです。ある産業の廃棄物は別の産業を生み、その産業の廃棄物はまた別の産業を生み、そうやって、一番はじめの産業に無駄なく還元させることで産業全体の構造を「完成」させる。化学よりも、自然科学や物理学を重視した循環資源を目指す。これが当時わたしにはとても斬新にうつりました。

『アップサイジングの時代が来る』より

いまでこそ、産業の廃棄物を別の産業に再利用するといった試みはよく聞かれるようになりましたよね。キャベツの廃棄物でウニを育てたりとか。形の悪い野菜を加工品にして販売したり。ただ、それもまだ道半ばで、単に廃棄物を無駄なく利用するだけでなく、全ての産業の廃棄と生産を循環させる「環」をつなぐことが大事なのです。

つまり、ひとつの企業や産業が独立採算型で自立するのではなく、複数の産業がひとつの共同体を形成し、お互いの資源を相互に補完し合いながらくらしているエコな「つながり」をもった場所。

「長屋」とコミュニティ

以前、とある観光地で古民家を見学していたことがありました。家屋の中を覗いていると、ボランティアなのか案内員をしている80代くらいのお爺さんが近寄ってきて、いろいろと説明を交えながら雑談してくれました。

昔はこういう壁のないだだっぴろい広間で家族みんなが各々に生活をしていたんだよ。お母さんが料理をしている傍らで子供が騒いでいたり、泣きわめく赤ちゃんをおばあちゃんがいなしていたり、そうやって家族の誰かの立てる音が家全体に良くも悪くも響いていて、お互いの「存在」を感じながら生活をしていたんだ、とそんな話をしてくれたように思います。

時代が進むにつれ、自分たちの孫にはせめて個室を作ってやりたいと、二階部屋を作った。孫娘が嫁ぐときには離れの家を立ててプライベートを確保してやった。「みんな良かれと思ってやったんだ。」そう言いながら、その結果、町がどんどん都市化するにつれ家族はみるみる分断され、核家族化されていった。赤ちゃんはワンオペでお母さんが育てなくてはいけなくなり、旦那は家族を養うためと会社で使い潰される。それでも誰も助けてくれない。ストレスフルで孤独で鬱々とした社会になってしまった。「ワシらの世代が(君たちの)社会を壊してしまったんだ。」(もちろん、それはお爺さんのせいではないのだけれど。)どうしてそんな話をわたしに打ち明けてくれたのか、まるでわたしに贖罪するかのように涙を流しながら話してくれたのです。そんな出来事があった。

当時まさしくエンジニアとして会社に使い潰されるような生活をしていたわたしにとって、この話はなんだか他人事として聞けなかった。そうか、わたしが求めていたのは、苦しい時にお互い助け合ったり、相互扶助のつながりをもつ関係性やコミュニティなのかもしれない。そんな風に感じるようになった。

このころから難波 和彦の『箱の家に住みたい』など、壁のない広がりのある空間をもった家屋や、複数の家族が密接に集合しながら同じ屋根の下、ゆるく暮らす「長屋建築」などに興味を持ち始めました。日本家屋って、外と内の境界もあいまいで、「縁側」で仲間と談笑する風景がいつも頭に浮かびます。めちゃステキじゃないですか?縁側で何でもない話を夕暮れまでダラダラしている仲間がいる風景!こういった昔ながらの日本家屋の佇まいが、日本の風土にあったコミュニティの醸成に向いているのかもしれない。そんな仮説を抱くようにもなりました。

「メタバース」とギフトエコノミー

家族のようなコミュニティというとき、それが確かな助け合いの関係性を生むために必要な要素ってなんだろう?会社で身を粉にするほど働いて、ずっと長い間一緒に過ごしている同僚ですら、退職してしまったらそれっきり。。。家族と同僚の違いはいったいどこにあるんだろう?

わたしたちは、お金によって便利に生活しているけども、結局のところ、このお金によって生存競争に巻き込まれていて、この生存競争がビジネスだけではなく、あらゆる生活にまで波及している。暗黙的に家族すらもこの競争に巻き込まれているのではないでしょうか。

そんなあるとき、わたしはメタバースにハマったことがあります。そこには、現実のお金に換金できる仮想通貨があり、経済活動があり、仕事や金銭の授受もありました。にも関わらず、、、そこにあったお金のやりとりは現実のそれとは全く違ったものでした。メタバースの世界では、生存競争がゆるくなることで、必然的に贈与経済(ギフト・エコノミー)が実現していたのではいか。そんな体験をしたことがあります。

このときの話を記事にしたnoteがこちら。

以前、noteで『資本主義を超えて』(ダダ・マヘシュヴァラナンダ)という書籍を紹介したことがありますが、「プラウト主義」というポスト資本主義をうたう社会思想があります。現代社会では経済発展は、むしろどれだけ資本を増やしたか(上限)によって評価されますよね。ところが、プラウト主義では逆で、最低限の生活水準(下限)がどこまで底上げできたか?が、よりよい社会の成長指数になるべきだと主張しています。

このとき、メタバースでの経験を思い出すのです。生存競争から遠ざかるとギフト・エコノミーが立ち上がる。。。つまり、プラウト主義の主張は、数%の長者を見るのではなく、最低限の生活水準を引き上げることで、人類は生存競争から次第に離脱し、沸き起こる人間の尊厳であったり、贈与の関係性を復興しようということなのではないかと思うのです。

「オーロヴィル」と贈与経済

さて、このような生存競争から離れて、相互扶助による贈与関係によって成り立つ町というのは世界にはないのだろうか。。。?現行の政治や経済域から外れた特区をつくり、人類の未来のための実験都市に暮らしてみる。むしろ政治のように未来を創造するお仕事って、理想を言えば長い時間をかけてトライ・アンド・エラーを繰り返しながら、まずは実験都市でリスク管理すべきものじゃないのか?システム開発ですら、全く新しい事業を立ち上げるときには相応の試験システムを立ち上げるのに。

そんなことを思いながら過ごしていたある日、見つけたんです。ありました!そんな都市が。それもインドにw

インド南部にオーロヴィルという都市があります。1968年から、何もなかった荒野に木を植えるところから始まった実験都市です。人種も出身地も関係なく「UNITE」「SUSTAINABLE」「GIFT ECONOMY」の理念の元、世界中から様々な国籍の人が集まって暮らしています。60年代にこの理念を掲げられたって、かなりの先見性があったのだと思いますよね。

オーロヴィル内の施設:マトリマンディル

10年ほど前にインド旅行に行った際に、ここにも訪れてみたかったのですが、残念ながらスケジュールがあわず諦めました。あまり、情報がなくって細かいことはわからないのですが、半世紀以上前から、持続可能な社会、共有、コモンの再生、パーマカルチャ、贈与経済といったものを現実に運用しようという試みがなされている都市です。

このオーロヴィルを作ったミラ・アルファサ(通称マザー)の理念を紹介したnoteがあります。この理念の文章が感動的なのです。こちらを貼っておきますので、ぜひ読んでみてください。

近年は、このような試みが日本国内でも、だいぶ見られるようになってきました。文末にいくつか気になるコミュニティーのリンクを貼っておきます。このような現実世界での活動がもっと認知され活発になるといいな。

「パーマカルチャ」と持続可能性

わたしがブラックな環境で仕事をしていたころ、少なくとも衣食住が確保できれば、わたしと同じような苦しい境遇の人達(少なくとも身の回りの友達くらい)は救えるのじゃないか。。。そんなことを思って、農業を学んだことがあります。といっても、知り合いの農家さんのところにお手伝いや研修にいったり、近所の地主さんの小さな畑を借りてちょっと大きめの家庭菜園的なノリで畑を耕してみた程度。この活動はわたし的には失敗で、あまり続きませんでした。ただ、いろんなことがわかってもきました。

現代の農業(慣行農法)では、味とか栄養よりも、「規格」が重視されます。同じ大きさ、同じ糖度、同じ色味などなど。スーパーで売るにしても工場で加工品を作るにしても、「商品」として扱う限り常に同じ品質を保つのが大事だからです。あんまり気にしたことないと思いますが、「昨日買ったポテチ」と「今日買ったポテチ」の味が違うことってありませんよね?あったら怖い。けど、よくよく考えるとないほうが不自然。。。あとは「収穫量」ですよね。収益に直結しますから。

こういったことを実現するために、種に工夫がされていたり、植物の成長に必要な化学肥料をつぎ込んで成長を促したりします。現代における農業をやってみるとわかりますけど、一世代しか実が実らなかったり、農薬、肥料を「マニュアル通りに」まかないと野菜が育たなかったりします。慣行農法はもはや自然ではなく、工業生産と同じです。そのようにわたしは感じました。植物は元気よく育っているように見えますが、実は根っこは痩せていて、肥料なしでは育たない品種になってます。植物にとって慣行農法における肥料は養分ではなく、むしろドーピングのようなものではないかとすらわたしは思います。植物の根っこ(人間の腸もそうですが)にはびっしりと微生物がいて、微生物のちからによって養分が体内に取り込まれています。この働きを弱めてしまうから、肥料が必要になり、害虫に耐性がなくなり農薬が必要になります。そうやって更に生命力を弱めてしまう負のループに陥っていやしないだろうか。

このようなことに最近の科学がだんだん気づき始め、より自然に近いカタチで植物を育てられないかといった活動が始まってますね。パーマカルチャとか、自然農法、自然栽培、無肥料・無農薬といったものです。それぞれに微妙に意味は違うようですが、目指す方向や志はとても似ていると思います。参考になりそうな本だと、、、『土と内蔵』なんて面白いかも。

肥料なしで野菜が育つのか?なんか、不思議に思いますけども、専門家に聞くと、「りなるさん、そこの空き地みてよ。誰もなんにも手を加えてないのに、雑草だらけじゃない?あの雑草の養分はどこから来てると思います?誰かが肥料を与えていると思いますか?」なんて言われました。養分も農薬もいらない、本来植物は自然からのエネルギーで育つんです。そこには多様な生物の排泄と成長の循環があるからです。「だから、他国から化学肥料の元になる鉱物を輸入したり、戦争や経済競争にわざわざ巻き込まれる必要もないんですよ。」そんな風に語っていた。

それぞれに自立したコミュニティーの裏山で、必要分を育て食料を調達する。そこには別に規格も過度な収穫量もいらない。自然の力を上手に利用して、もはや人と人だけでなく、人間が微生物と共生することで、豊かな村が築けないものだろうか。

「コロニー」と究極の効率化

あまり現実味のある話じゃないですが、現実の既成概念をなくすという意味で、ショックを受けたのを覚えているので、これも紹介したいと思います。ネタ元がはっきりせずで申し訳ないのですが、わたしのうろおぼえの記憶だと、武田邦彦先生のブロクだったかYouTubeなどで語られていた、町をコロニー化するという発想。

現代社会の都市構造って利便性が上がって効率化が進んでいるっていうけど、ほんとだろうか?

わたしもよく疑問に思っているんですが、世の中には当たり前のようにトイレが各家庭にある。キッチンも、バスルームも、で、ほとんどの場合はこれらの施設は日中はほとんど使われていない。更に言うと、屋根や壁だってみんな全ての家に「それぞれ」作られている。これって非効率じないですか?家と家の間には塀があり、その隙間ももったいない。多くの場合、除草剤が撒かれたり日も当たらない不毛のスペース。

だから、街全体を東京ドームみたいな大屋根で覆ってしまえばいい。そうすれば、各家庭の家には屋根はいらなくなる、壁も簡易なもので良くなるし、家と家の間の無駄な隙間もなくなる、構築費も安くなる、もしかしたら、冷暖房にかかる光熱費もいらなくなるかもしれない。トイレやバスルーム、キッチンも別に各家庭に一つなくてもいい(欲しい人だけが増設すればいい)。

更に、ドームとドーム間を高速鉄道で結べば、それ以外の土地は原則、森と農地だけにして、極力自然環境を破壊しない。すると、ドームの中に車がバンバン走ることもないから、無駄にスペースを取っている車道もいらない。子供も安心して外(ドーム内を外と呼べるかは議論の余地ありw)で遊べるし、排ガス規制なんかもいらない。

トンデモ理論感ありますけど、未来の町づくりについて、このくらいの大胆な発想があっても面白くないですか?いずれにしても、極端に効率化を求めるのであればこういう街になる。。。裏を返せば、現代の都市って純粋に効率化がされているのではなく、利益率や収益性をあげることが前提なんじゃないか、、、なんて、この話を聞いて改めて思ったりしたわけです。

現代人は時間を売っている

いろんな発想をもって未来を夢見てほしいって、わたしは思います。そうやって自分の暮らす未来のストーリーを、みんなが少しずつ描いて行けたらいい。

みんな忘れているかもしれないので、改めて言いますが、そのために大切なのはあなた自身の「時間」です。失敗したっていいんです。トライ・アンド・エラーなんですから。それを繰り返しながらよりよい生活様式を見いだせればよいんです。だからもっと、自分の生活にたいして「前向き」に「自由」に、そして多少「強引」に生きていいとわたしは思います。でも、そのためには、やっぱり時間的な余裕が必要になります。

わたしたちの生活は(あるいは生活必需品は)、ほぼ全て「商品」として囲い込まれてしまっています。だから、生きるためにはお金が必要なのです。そのお金を得るために、わたしたちのほとんどは自分の労働時間を「商品化」してお金を得る必要がでてくる。そういうしくみの中でわたしたちは生きています。だから、生活に余裕をもたせたるためと、給与アップに勤しみます。多くの人が言ってる「自分磨き/スキルアップ」ってつまり「自分の時間」の商品価値を効率よく上げようとする行為です。

でもね、自由を享受するために賃金を上げようという努力は恐らく不毛です。マルクスも当時から言及していたようですが、より重要なのは自分を「商品化」する賃金労働を「やめる」、もしくは「減らす」ことです。このことを念頭に入れつつ、人生の節目節目で、未来のストーリーを描きながら生活してみてほしいと思っています。

ちょっとわたし自身の話をしようと思います。現代の企業では、8時間労働を減らすとか、週休2日をなくすなんて働き方は難しいと思います。なので、わたしはしかたなくフリーランスをしているわけですが、だいたい4社くらいとゆるく繋がっていて、どれかひとつがぽしゃっても1社に依存せずに生きていける環境を作るように心がけています。そして、何より重要なのは、年収の上限で自分の生活を考え「ない」ということです。まずは、自分の生活の下限を知ることです。それ以上の年収は過剰です。過剰分の収入はつまり、あなたの時間が過剰に商品化されているという意味でもあるのですから。そのように考え行動を変えることで、少しずつ自分の時間をとりもどしてみてはいかがでしょうか?

もちろん、今は社会的に貧困が深刻化していて、そもそもそんな余裕がない人のほうが多いかもしれません。でも、変われる人から変われば良いと思うのです。すぐに実行する必要もありません。人生の節目節目で、何かの決断に迷ったとき、そんな未来の描き方もあったよな、と頭の片隅に留めておいてもらえたらと思っています。

ナカマを作るのにも時間が必要なのです。小学校時代に、真っ暗になるまで遊びに没頭して親に怒られた経験ありませんか?今、あなたはそれほどまでに友人と没頭する時間を作れていますか?親友はそのような交流の深さや長さによってゆっくり醸成されていくものです。そうやってナカマが少しずつ増えていく未来を夢見ています。

りなる



おまけ: はじまっている国内の波

日本国内でもこういった街づくり・コミュニティづくりが、最近どんどんはじまっているように思います。

希望のまち


アズワンコミュニティ


eumo コミュニティー通貨


紹介した書籍


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