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メタバースとギフトエコノミー

最近、メタバースという言葉をよく耳にしますよね。オンライン上に構築された3D仮想世界をアバターと呼ばれる人形を使って活動できるデジタル空間のことです。わたしは結構メタバースを利用していたたちで、よくメタバースの可能性とか、今後の展望みたいなことを聞かれるんです。

でも、わたしが見てきたメタバースと、そもそも世の中で話題になっているメタバースでは見ている世界が違い過ぎて、これをサラリと説明できるようになるまでは、なるべく口を開かないようにしているんですw

noteでは、サラリと説明する必要もないので、今日は、以前からなかなか言語化できずに溜め込んでいるネタを、じっくり語って見たいと思います。

さて、話を突飛なところからはじめようと思いますw


物の値段を決めているもの

突然ですが、みなさなんは商品の値段ってどうやって決まってると思いますか?市場の需要と供給のバランスによって適正な価格に落ち着くって習いましたよね。あんまり経済には詳しくないですが、たぶんそれで正しいと思います。ただ、わたしはこれちょっと説明が足りない気がしています。

もうちょっと深く考察しみると、そこには売り手の生活という「軸」を据え置く必要があると思うんです。この軸が値付けの中心にあるということが、バランス以前に重要だと思うんです。例えば、今月家族を養うためには15万円稼がないといけない、するとこの商品を売るのに1000円じゃ生活がギリ成り立たない、だけど3000円じゃ高すぎて売れないから、バランスをみて2500円くらいで売ろう。。。といった順序があるということです。

結局、需要と供給のバランスじゃないかって?w

当たり前のこと過ぎて、もうちょっと説明が必要そうですね。。。

商品化と囲い込み

現代社会ではあらゆる物やサービスは「商品化」されています。これは生活必需品であっても同じです。食料を調達するために裏山に言ってキノコを取ってくればいいなんて発想をする人は、もういません。寝るのに雨風を避けられればいいから軒下を貸してくれなんて言う人も、もういません。これがつまりエンクロージャー(囲い込み)というやつですね。わたしたちの生活に必要なものは全て囲い込まれていて、必要を調達するためには「商品化された物」を「買う」しかありません。

買うためのお金を調達するにはどうするか?ほとんどの人にとっては自分が働くしかありません。つまり、今度は自分の「労働力」を商品化するんです。だから、自分の労働力をできるだけ高値で取引できれば、自由時間が増え生活が楽になります。みんな稼いだお金によって生活費を調達しているわけです。「売り手」もまた別の側面からみれば「買い手」(消費者)になります。

まだ当たり前の事を言ってますかね。。。

ところが、これが当たり前「でない」世界があります。それが、メタバースの世界です。

当たり前でない世界から、当たり前の世界をみると、そこにある違和感に気づくことができるかもしれません。

メタバースの生活費

当然ですが、メタバースの世界では別にご飯がなくても死なないし、家がなくても死にません。洋服がなくても死にません(まぁ、裸で歩いてたら管理者から怒られたりはするかもですけどw)。

つまり、ただぼーっと生きるために必要なものなど何もない世界です。

ちょっと話が横道にそれますが、わたしは以前SecondLifeというメタバースにハマって遊んでいたことがあります。何かボス敵を倒すようなイベントがあるわけでもない、ただそこにログインして誰かと交流したり、仲間を集めて町を作ったり、3Dの作品を創作したり、それを販売したりといった、「ただの日常が過ごせる」だけの仮想世界です。それ何が目的なの?とか、何が楽しいの?ってよく言われましたが、、、これが楽しかったんですよw 10年以上前のシステムですが、このメタバース内で発行された通貨が現実のお金に換金できるという革新的な側面もあり、当時は相当テレビやビジネス系の雑誌に取り沙汰されました。知っている人も多いのではないかと思います。

このような世界で、わたしはクリエーターとして、いろいろなプログラムを開発したり、洋服や建物を作って販売していたりしました。SecondLifeって10年以上前につくられたシステムですが、ものすごくよくできて今もほぼ同じプラットフォーム上で動いています。この創作プロセスが斬新で、わたしは時間が経つのも忘れて創作活動にめり込んでいました。(その話はまたいずれ別の機会に。。。)

ものづくりも楽しいのですが、作ったものを販売できるというのが、このSecondLifeのもうひとつの醍醐味ですので、もちろんわたしも自分の作ったものを販売していました。自分でいうのもあれですが、そこそこ有名なお店だったと思いますw

物価はどうやって決まる?

さて、このときわたしは「売り手」として「自分が創作したモノに値付けをする」ということをしなければならなくなりました。ここで、はたと思うわけです。

「いくらで売ればいいんだろう?」

だって、メタバースの世界では、別にこれを1円で買ってくれようと、1000円で買ってくれようと、わたしの「買い手」としての生存レベルは何も変わらないからです。もちろん同業者もいるのであんまり低価格だと価格破壊を起こして迷惑かけてしまうし、あんまり高すぎて売れなくても面白くない。だから、そういう意味では物価は、メタバースの世界であっても、ある程度は現実世界と同じで需要と供給のバランスによって決まります。

でも、この時に気づいたんです。労働力を商品化している「売り手」と、生きるために必要な商品の「買い手」は「同一人物」の中で起こります。この自己の中でのバランスで(というよりは葛藤によって)物価は決まる。物価というのは極めて個人的で人工的なものです。需要と供給のバランスというより、これは「同じ人間」の「異なる役割」(売り手 / 買い手)から生まれる生存葛藤と呼ぶべきもののように思います。

ところが、メタバースの世界には、そもそも生きるために労働力を商品化する必要がありませんから。。。生存するための葛藤が存在しないのです。

すると値付けができなくなります。適正な物価など存在しないということに気づくからです。

値段の根拠はなんだろう?

現実世界の物の価格にはだいたい適正な価格があります(そうわたしたちは思い込んでいます)。例えば、この車が500万円である根拠はなんだろう?原価がいくらだとか、人件費がいくらだとか、いろいろ言う人もいますが、全ての資源は地球のどこかから採掘・採取したものです。元々値段なんてありませんよね。輸送費?人件費?それも同じことです。動力の元になるガソリンだって元は天然資源です。誤解を恐れずに言えば、人件費こそ人が動いているだけです。人間の勝手な価値観によって、労働力に値付けをしたにすぎないのです。(ここではそれが良いとか悪いとかいいたいのではなく、そのように社会をあくまで「人工的に」構成したということです。)

生存するためにモノを「買う」必要がない、生存葛藤が全くない世界では、この車が500万円である根拠はどこにもありません。ということをメタバースの世界でわたしは身体知として身にしみて感じたわけです。

すると何が起こるだろう?

ちょっと思考実験してみてください。このように生存葛藤のない世界に住んでいると、どんなことが起こると思いますか?

およそ全ての金銭のやりとりが、ギフトエコノミーになります。

わたしが作ったものを1円で買ってくれようと、1000円で買ってくれようとどうでもいいわけです。別にタダでもいい。わたしは作ることが楽しくて作ったわけですから。デジタルですからもちろん原価も0円です(厳密にはテクスチャのアップロードなどに微量の課金が必要になる)。

でもね、友人だったり誰かに「これ作ったからどうぞ」なんて言ってものをあげると、やっぱりもらった相手は、それをどうにかして感謝の気持ちで表したいと感じるものなんです。それを気に入れば気に入るほど、この気持ちはより強くなります。なぜそう思うのか?これは人間はそういう生き物だとしか説明できません。

そもそも、メタバース上にはお金をまったくもってないユーザもいますし、土地ビジネスで儲けている富豪ユーザもいます。(そういう意味ではめちゃくちゃ格差社会w)わたしはそういう意味ではクリエーターだったので富豪ユーザ側だったと思いますw でも、そんな世界で、なけなしのお金で、どうしても感謝の気持ちを表したいから持ち金ぜんぶ払います!!なんていって10円くれたら、売り手としてどう感じるか想像できますか?

めちゃくちゃ嬉しい!んですよ。

つまり、それが10円であろうと、1000円であろうと、全ての対価が「ありがとう」に見えるようになります。

当時はまだ贈与経済とか、ギフトエコノミーなんて言葉を知らなかったので言語化できませんでしたけど、まぎれもなくギフトエコノミーが、そこにはあったように思います。

生存葛藤が根っこにある

現実世界では、こんなこと起こりません。 野菜ひとつ買うのに感謝の気持ちを込めて「全財産である10円を受け取ってください!!」なんて店主に言っても、「ふざけるな!」って怒られますよねw

ですから、物価の根拠というものが「生存葛藤」に根付いていて、その葛藤は生活必需が全て囲い込まれた商品化社会によって引き起こされているのだと認識することがとても重要だとわたしは思うわけです。

だから、単にお金に問題があるからお金をなくせばいいとか、持たざる者に再配分すればいいとか、単純に多く発行すればよい、という表面的な議論よりもその背景にある仕組みをまずは知覚することが大事だと思います。でなければ、問題は常に形を変えて残り続けるし、逆に本質に立ち返れば毒も薬になると言うことだと思います。

そのようにメタバースに入り浸って廃人のように生活をしていて感じさせられたわけですw

現実の焼き増しはつまらない

最近、まぁ、当時もそうだったのですが、メタバースに商機を見出して、様々な企業が参入してきて、ビジネスを展開しようとしています。でも、わたしのようなメタバース廃人はそれをちょっと冷めた目でみていたりします。(あ、今はもうメタバース住人ではないので、元廃人ですw)

彼らは、実際にメタバースの世界に住んでいません。だから、根本的な違いに気がついていないのです。現実世界で人工的に作られた社会ルールが、そもそもメタバースの世界には適用できない・する必要がない。そこから解放されることにこそ大きな意味があるということに気づいていないように思います。

だから、現実世界のお店を再現してみたり、オフィスを再現してみたりして、結局やっていることは、現実世界の焼き増しです。そうやって生存葛藤の中にまたしても引き戻そうとするのです。(たぶん、無意識になんですけども。)

わたし自身(当時はそれと気づかずに)メタバースで知り合った友人たちと心地よい空間を毎日過ごしていたことを、今とても懐かしく思い出します。そこには、たしかに現実世界にはない「ギフトエコノミー」が存在していたように思うのです。

りなる



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