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革命のプレリュード

「ねぇ、資本主義ってほんとうになくなると思う?」なんて訝しげに問いが発せられた。ポスト資本主義だとか、やたら騒ぐ人がいるけれど、資本主義には決まった教義や実体があるわけではなくて、それ自体がどんどん変化しているし、ビジネスの健全さについても数十年前とは全く違う。いまのシステムをもっとよりよく「改善」しようと社会を良くするために活動している資本家はたくさんいる。

世の中が行き詰まっているからといって、全てをひっくり返せ!みたいな主張は短絡的だし、この先どうなるかなんて誰にもわからないのに、全ての原因をシステムやしくみのせいに丸投げするのは、いささか未来に対する無責任で投げやりな態度だ。

それについて、わたしなりの(答えじゃなくて)考えを短くnoteしておきたくなりました。

「価値観」の変遷をみる

わたし自身は、資本主義が良いとか悪いとかいう意識はあまりもっていません。資本主義という ”システム” がもたらした多くの功績 ーーー 物質的な豊かさや、数々のイノベーション、そして個人の自由と解放をもたらしたように理解しています。だから、この先もイノベーションとともに「改善」を繰り返しながら、よりよい社会を模索するのが市民の”冷静”な態度なのではないか?という意見も、わからなくはない。

ただ一方で、わたしが思うのは、人間の「価値観」そのものは、2、300年くらいのゆったりとした周期の中で変化を繰り返すということです。だから、重要なのは、システムそのものがどうあるべきかというよりも、、、その「価値観」が時代と共にどう移りゆくのかだと思うのです。興味を向けるべき先はシステムではないのではないか。

過去には、「力」や地位、名声によって人々を統治する時代があり、かと思えば「知」や精神性、宗教などにより統治する時代があり、また「財」や物的豊かさによって統治する時代がありました。それぞれに、時代にあわせて振り子のように価値観の軸が揺れ動いている。引力に引き寄せられ不足を補うようにおもりは右に振れ、、、それが十分に充足されると別の極の不足を補うようにおもりは左に戻ってゆく。。。

この揺れは決して止められない。し、むしろ止めてはいけないのです。

統治は「される側」の価値観による

多くの人にとって、新しい時代はそれを担う天才的な「リーダー」が現れ、新しい力によって世の中を魔法のように変えていく、そんな幻想をいだいているかもしれません。

でも、実際にはそうではありません。世の中を統治するには「統治される側」の価値観が不可欠だということです。世の中を変えるのは「被・統治者」の価値観の変遷なのです。

例えば、現代ではたくさんの資本を持っている人が多くの権利を有し社会を動かしています。でもそれは、わたしたち統治「される側」が、資本に対して価値を見出しているからこそ可能なのではないでしょうか。現代人は資本の生み出す多大な財に対して神秘的とも言えるほど強い憧れを抱いています。この憧れーーー「価値観」こそが、資産家を統治者たらしめている。もし、わたしたちが「100億円?それ食べられるの?」みたいな価値観w を持っていたら、資産家はその時点で王様にはなれないでしょう?わたしたちみんながいっぺんに王様を信じることを「しない」と決めた瞬間に社会は変わるんです。王様は彼を信じる臣民がいて初めて王様たりえるのですから。

つまり、強力なリーダーや統治者が現れ、その絶大な力によって社会が変革しているわけではなく、われわれ市民の価値観が振り子のように移りゆくことによって、リーダーや統治者が浮かび上がるように現れるということです。

それは「いつ」起こるのか

あらゆる価値観は移りゆく。これはもうどうしようもない。自然の摂理みたいなものです。2500年前からお釈迦様も言ってますが、2500年経った今なお、その言葉を誰も覆すことができないーーー諸行無常。あらゆるものは移り変わり生滅を繰り返すのです。

問題は「いつ」起こるか、だけではないかと思います。この点ここでは深掘りしませんが、振り子のおもりはいまどの辺りにあるとあなたは思いますか?

「改善派」か「改革派」か

「改善」とは現状の価値観をそのままに事態をより良くしようとする活動です。一方で「改革」というのは現状の価値観そのものを否定し根本的な変革を求める活動です。これはとき社会構造そのものを揺るがすような革命をともなうかもしれません。

時代の流れによって、統治者がその価値観にあわせて入れ替わるというのもまた不可避です。一つの価値観が未来永劫に続くことはありえないからです。保守的で温厚な人ほど過激な改革を嫌うかもしれない。でも、現状の価値観を否定する形で「改革」や「革命」が起こることもまた避けられない。

すると、ときとしてより根深い問題は現状の価値観を永続させようとする「改善派」の善意にこそ現れる。彼ら彼女らは、もちろん良かれと思って、「今のしくみ」をよりよくし永続させようと努力しているのだけれど、改善という選択はしばしば価値観の変遷を押し留めます。そして、押し留めようとすればするほど、そこには新しい価値観に対しての強い対立を生んでしまう。

この対立こそが、革命に血が伴う理由です。繰り返しますが、この揺れは決して止められない。だからこそ、むしろ「止めてはいけない」のです。

わたしたち人類はそろそろこの価値観の変遷を受け入れる生き方を学ぶ時期なのではないでしょうか。改革や革命は必ず起こる。起こってしまう。だからこそ、大切なのは無難な「改善」ではなく、その時期を見誤らずにむしろ「改革・革命」を穏やかに推進すること。適切に推進できれば、わたしたちは安全に血を流さずに、心地よい社会を選ぶことができるはずです。

みんなの価値観を育むこと

世の中のあらゆる価値観は決して永続しない。そして、新しい価値観は何者でもないわたしたち市民の価値観の変遷によって生まれる。そうだとするなら、重要なのはわたしたち自身が自分たちの持っている感性を研ぎ澄まし、より価値観に敏感であることだとわたしは思うのです。

みんなはどういう社会に住みたいのだろう?どんな夢を持っていて、どんな人に憧れるのか?自分の娘や孫にどんな人と付き合って、どんな世界に生きてほしいのか?そんなストーリーを描けるような大人になっていたい。その営みはただがむしゃらに生活に忙殺されているだけでは見つからないし、また、ただぼうっとしているだけでも見つからない。眼の前の”できること”に闇雲になって、決められた”すべきこと” をただ「する」のではなく、使い古された価値観を心静かな感性によって避け「しない」ことに目を向けてみる。今を真摯に生きて、自己の内在を静かに見つめるたゆまぬ姿勢のなかに浮かび上がってくるのだと思うのです。

りなる



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