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組織の持続可能性を考えるとき(下書きから)

最近の書店に並ぶ組織論だとかリーダー論といった類のものは、部分最適でしか語っていない。先日、組織について雄弁に語る人の言葉を上の空で聞きながら、そんな風なことを思った。あぁ、だから、興味を惹かれないのだといまさらながらに気づいた。(そのときの下書きに少し手を加えて乗せている。)だから、いつも理解してもらえなかったり話が噛み合わないといった違和感を感じてしまうのだと思い至る。このnoteの世界にも同じような違和感を持ちながら生活している人は多いのではないだろうか。。。

よくある組織論は自らの組織において、効率的な人材管理のしくみであったり、先の見えない環境下で持続可能・永続的なしくみを作り出そうとする。生き残りのための戦術なのだけど、そもそも生き残りってなんだろう?自分の組織だけが生き残ることは持続可能と言えるのか?持続可能っていうのはつまり環境全体がより安定的な形で存続することが望まれるわけで、、、極めて部分的な「一組織」が生き残ったところで持続可能とは言えないのではないだろうか。

10人のうち1人だけが永続的?に生き残って、他の9人が瀕死の状態であることが持続可能だと言い張るつもりなのか。現在の組織論っていうのは、その1人が価値を提供し続け存続することだけにフォーカスしていて、残りの9人のことは見えないふりをしている。

その結果、いまおよそ全ての組織は偏りによって生まれていて、優秀な人材をどこよりも好い条件で囲い込むことで、より大きな成果を上げようとする。個人にとっても、より好い条件を求めて、より好い組織に所属しようという意識が自然に働くし、それを「上昇志向」だと言って褒め称えもする。

でも、どうだろう?

無数に存在する業界や組織が、自身の集団のみの「持続可能性」を模索する偏りが極端な社会と、人材が多様に分散した偏りの少ない社会の有り様を想像してみてほしい。

(色が濃いほど優秀な人材)

偏りの極端な環境にあった場合、これまで習ってきたように、適切な競争によって切磋琢磨しながら社会全体が発展してゆくなどという理屈が本当にこの先もずっと成り立つのだろうか?そもそものスタートが持つものと持たざる者の偏りの中の競争なのだとしたら、結果の見え透いた出来レースと同じではないかと思えてしまう。。。

すると、こう反論したくなるかもしれない。例えばGAFAのような例を出して、このような突出した組織が現れることでイノベーションが起こるとか、こういった組織が牽引になって社会はより大きく発展するだとか、トリクルダウンが起こって全体が豊かに潤うのだと。けど、、、実際にいまそんなことはまあまあ起こってないよね。イノベーションに関してはそのとおりかも知れないけれど、そのイノベーションすらいまや社会をどのレベルで豊かにしたのかは議論の余地が残る。(特定の組織や地域が潤う代わりに、資源は搾取され、環境は破壊され続けていたりする。)

わたしたち自身が偏りを許容し、むしろ強い組織に憧れに似た賛美をするからこそ、このような偏りは無意識的にも起こり続ける。だからこそ意識的にそこに視点を向けられたものだけが気づく。自分の生き残りだけを考える組織論はいつも部分最適ではないか。おおよそ全ての組織論、人材マネージメント、リーダー論は、この部分最適の中でしか語られてないじゃないか。

それでいいのだろうか?

このような部分最適や偏りは、ほとんどの人は気づいていないかもしれないけれど、原理的に「選別」によって生まれている。それは受験かもしれないし、採用試験かもしれない。このような選別によって選ばれたメンバーは無意識的に他のメンバーの個性を能力で分別したくなるものなのだ。選別によって集結した集団はより高い能力を称え、他者を足切り排除しようとする。しかし、本来組織の目的というのは、持てるポテンシャルを ”つながり” によって底上げすることで安定をもたらすことであるべきではないかとわたしは思う。

だからね、もっともっと視野を広げて、もっと本質的な話をしよう!って思う。強い組織の偏りが全体を牽引した時代もあっただろうと思う。だから、それが全部間違いだとは言わない。ただ、この先、優秀な人材を適職に(または無作為に)分散し社会全体の底上げをしようといった試みにこそ、持続可能で安定的な社会を生むポテンシャルは潜んでいるのじゃないか?そんな風なことにもっと目を向けてみてほしい。

いまどの会社でも、例えば優秀な人材を意図的に流出させることで、社会全体の便宜を図る企業なんていない。そんなことを考える企業すらいない。キャリア「ダウン」だと言って、より底辺の困った企業に再就職しようなどというサラリーマンも聞かないし、それを褒められもしない。元気のない業界に社員を出向させたり、競合と人材交流をしたり、そのようにバランスをとることで社会全体の便宜を図ろうなんていうのはむしろバカげた話なのだろうか?

そんな記事をもうちょっと深掘りして、そのうち書きたい。

りなる



あとがき
ちょっと組織論とは違うけれど、こんなことを考えていたら、COTEN RADIOで民主主義について(全14話予定)というテーマがはじまった。

これを聞いていると2500年前のギリシャや、その後のローマのほうがよっぽど社会全体の公共性や自由といったものに「真剣」に向き合って議論していたのだなという気がしてしまった。


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