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悪人でなく、悪意に立ち向かうこと

これ勧められて読んでみたら久しぶりに面白かった。

興味ある方は地元の図書館などで探してみてください。もう販売してなさそうです。。。『自分の小さな「箱」から脱出する方法』という書籍を紹介したことがありますが、この本が好きな人には特におすすめかも。出発はおおよそ同じなのだけど、そこから社会の課題、教育や子どものしつけ、更には国際紛争までその議論の幅は拡張されていく。なかなかシビれる内容です。

自分の感情や情動(感情以前に身体が感じる反応)を裏切ると自分の心と外との関係が断絶してしまう。そこに生じたコミュニケーションのバグを補正するのは自分の心を軸にした学習に頼るしかないのだけど、誰かに裏切られたとか、愛情を注がれていないとか、あるいはより直接的な目の前の恐怖から自身の声を無視してしまう。このバグを埋め合わせようとして、相手を否定しひとりよがりの行動を強制する行為に及ぶ。この「否定」と「強制」がハラスメントの原理だ。(かなり意訳的に要約)

例えば日常のこんなシーンを思い浮かべてみる。上司に「これ経費で落としておいて」という依頼を受けたとする。見ると明らかに仕事を装って昨晩キャバクラで遊んだお金を会社の経費で建て替えようとしている。でも上司の指示だし、しょうもなっ、と思いながらも処理を進める。このときあなたは上司を優先し自分を裏切って心の声を無視している。これをハラスメントの定義に当てはめるなら、上司はあなたの正義感を「否定」し、あなたに対する評価権限をもって暗黙に「強制」をしている。大抵の人はそれに抗うよりもここで考えるのを辞めてしまう。こうやって自分の感情に不感になる。あなたは今後この感情を感じなくなってしまう。感じないのだから当然、無自覚に今度は自分の部下や同僚に対しても同じような指示や自分の正義感に反したコミュニケーションをとってしまう。これはあなたが悪いのではなく、ハラスメントによって感情が見えなくなってしまうことが原因。こうやってハラスメントは無自覚に連鎖していく。

感情や情動を「否定」し従うことを「強制」するものはハラスメントを生む。すると、親のしつけはもちろん、あらゆる「教育」すら原理的にハラスメントである。。。会社の「評価」制度もハラスメントである。権威主義的であろうと反権威主義的であろうと関係ない。イデオロギー、科学的理論、宗教、教育、しつけはハラスメントを正当化する。(いや、むしろ現代人はこの枠のなかでしか生きてないよね。。。このような状況に過度にさらされた現代人が心を失ってしまうのは必然なのかもしれない、、、。目の前の現実を歪んフィルタで見ているのだけど、その違和感を否定する自分の心の声を無視してしまうのだから、何をしてもきっと報われないし満たされないな。。。と読んでいて少し怖くなった。)

さてでは、こんなハラスメントが連鎖する世の中から離脱するにはどうすればいいのだろう?

この対極にあるのが「受容」と「提示」からなるエンターテイメントであるといいます。相手の感情を受け入れ、そして強制ではなく提示するコミュニケーションだ。この文脈で世の中を再考することで、新しいコミュニティーの有り様がみえてくるかもしれない。

学習とは本来、自己や他人の感情や情動に対する向き合い方を学ぶことでなくてはいけない。勉強によって知識を詰め込むことや、まして知識の多さによって評価される教育はハラスメントの上塗りでしかない。。。知性の高さとは、勉強ができることではなく、自己の心や身体に対する学習能力の高さに他ならない。

その上で学問の意義とは、社会や自然界の事象を洞察し、それをわれわれの社会で理解可能なコミュニケーションに変換することなのだ。単に、論文を書いたり斬新な理論を打ち立てることに価値があるなどというのは学者の傲慢であると著者は批判する。

国際紛争や戦争などもこの感情や情動の文脈で解決の道が示される。対立は問題ではなく、感情のもつれが問題であると。

本来の自分であり続けることは、他者との間に対立を引き起こす。これは避けるべきことではなく、望ましいことである。対立は自分に対するモニタリングであり、感情のもつれとは異なる。

一方、感情のもつれは、相手への嫌悪感や攻撃衝動であり、相手をパッケージ化して自分へのフィードバックを返さない一方公的なものである。戦争は対立ではなく、感情のもつれに過ぎない。

ハラスメントを、仕掛ける人の責任にしてしまうと本質を大きく見誤る可能性がある。重要なのは「悪人」が問題なのではなく、他者を都合よく一様に偏見する「悪意」なのだ。悪人を問題視すると悪人を排除するための「密告」が必要になり「拘束」や「処罰」などが必要になる。このような強制(暴力)行為は例えそれがどれだけ正当な理由や公的なルールによるものだったとしても、実施者は自身の善意の感情を裏切ることになる。この感覚がハラスメントそのものだ。ハラスメントをハラスメントで排除しようとすることで、ハラスメントを生んでしまう。それ以前にそこに潜んでいる「悪意」の連鎖を断ち切らないといけない。そのようにして筆者はガンジーの思想(サティヤーグラハ)などを例にその行いの合理性に言及したりもする。

この他にも、ドラッカーを引き合いに仕事や職場についての言及もある。本書で扱う射程は非常に多岐にわたる。これを最後に引用して終わろうと思います。

身体の欲望には、生存に必要なためのバランスのとれた栄養と、快適な衣服と住環境以外には、他者との密接なコミュニケーションしか入ってないはずである。コミュニケーションを確保するための移動手段や通信手段もここに含める必要があろう。さらにこのなかには、労働への欲望が含まれている。無為に暮らすのは人間には難しい。

ピーター・ドラッカーの言うように、それぞれの人間には、それぞれのリズムがあり、そのリズムにしたがって仕事をしたときに、生産性は高くなり、働くものに喜びが生まれる。一方で、仕事には仕事のリズムがある。そのリズムで仕事が行われたときに、仕事の効率は上がる。この矛盾を折り合わせるのが、マネジメントの仕事である。

人が感情を劣化させることで、ハラスメント化は助長される。わたしたちがいま社会を見回した時に行われている管理体制や教育は、感情を豊かにし自己に向き合う機会をわたしたちに与えてくれているだろうか?もし、いま苦しい・満たされないと感じるなら、暗黙のハラスメントが存在していて自身の心の感情や情動に蓋をしているかもしれない。無自覚にハラスメントの連鎖の輪に加わることで、あなたの感情はますます劣化し続ける。。。

自身の心に向き合い、いまこの瞬間の生身の感情に生きること。そのような習慣と、それをサポートしてくれる信頼できる仲間が集まる場所をどれだけ作り出すことができるだろうか。そんな希望の道を示唆してくれる書籍でした。

りなる



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