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エリート教育とチームワーク

今日は散歩しながら、なんとなくチームビルディング的なことを生業にしているわたしの人生で最初に感じたチームの定義について、エリート教育とチームワークというよくわからないお題にて、自分語りをしてみようと思っています。

雑兵にまみれた中学生

少しわたしの中学時代の話に付き合ってもらいましょう。わたしの中学はほんとうに x 2 勉強のしない学校で有名なところでしてw その代わりなのか、課外活動がめちゃくちゃ多く、今じゃありえないと思いますが、イベントづくしの毎日。部活動もいれるとほんとうに朝から夜中まで常に何かしらの準備やら企画に追われている毎日でした。良く言えばオール3年B組状態。または、リアル「ごくせん」。今だったら体罰?的なこともあったし、精神論どんとこい!の世界でした。個人で完結する勉学とは違って、辛いことも大変なこともたくさんあったけど、むちゃくちゃ楽しかった。

そんな中学でしたけど、いくつもの壁を乗り越え仲間と共に生活していると、何もできなかった彼らとの連帯が生まれ、クラスメートのクセや悪習、泣き所がわかるようになり、何もできなかったクラスでできることがみるみる増えていくんです。3年になるころには、言葉にしなくても大抵のことはあうんの呼吸でできるようになります。チーム連携の地盤ができるのです。

レベル5の雑兵が10人集まって、はじめは難易度50程度のことしかできなかったのが、難易度80くらいの課題をクリアできるようになるわけです。月並みですけども、金八先生風に言えば、1 + 1 = 2 じゃない!わけですwww

レベル5 x 10人 (x α)= 難易度80

この「α」の部分、ひとりではなし得なかった不可思議なチカラ、がチームワークです。これがわたしが人生で一番最初に感じたチームワークの原体験だったのじゃないかと思います。

エリートにまみれた高校生

さて続いて、わたしの高校時代に話を進めましょう。わたしの高校がエリート高校だったかどうかは微妙ですが、地元ではそこそこ有名な高校です。なにより学生の中に「エリート意識があった」という点で、ここではひとまずエリート認定させていただきたいと思いますw

誤解のないようにエリート意識といっても、みなさんが考えているような、「自分たちは優秀だ!」っていう優越感だったり、「能力の劣ったものは無価値だ!」みたいな差別的な意識とはちょっと違います。後述しますが、わたしがここでいうエリート意識というのはそういった目に見えたネガティブなものではありません。それは一見どこに問題があるのかもわからないような「正当性」のなかに潜んでいるものです。

高校にはとにかく優秀な生徒が多かった。みんな温厚で基本的に「いいヤツ」ばかりでした。コミュニケーションもうまいし、こちらの意図も汲んでくれる。こちらが1を言うだけで、大抵のことはサラリと理解し実行に移してくれます。そもそも基礎能力が高いわけですから、中学のときの平均レベルが5だとしたら、高校では初期レベルがもう10とかなわけです。そんな世界ではどんなことが起こるか。

レベル10 x 10人 = 難易度100

レベル10の人材が10人集まるだけで、何の努力もせず100近い成果がでてしまいます。これは120%の努力をして80しか成果がだせなかった中学時代とはまったく違った世界観でした。

でもね、気付きました?「α」がないんですよ。

チームワークの勘違いに気づけない

「α」がない!!これはどういうことか。例えば、学園祭で横断幕を制作しようという企画が持ち上がったとします。そういったときに、デザインの得意な生徒がいて、装飾が得意な生徒がいて、工作が得意な生徒がいます。みな器用なので、それ以外の人は迅速に裏方に回って必要なサポートを提供するんです。こういった組み換え行動が一瞬でできちゃいます。優秀な人材っていうのはやっぱり優秀なんです。

ただこれって「分業」化なんです。自分の得意なことに対して極振りして、得意じゃないことは別の得意な人に任せる。しかも、これ実に気持ちがいい。苦手なことは任せて、自分の心地のよい作業だけに没頭できるうえに成果もあがる、ある種独特の恍惚感があります。

でもね、繰り返しますけど、これは分業なんです。分業だって立派なチームワークだろ!って主張する人も当然います。もちろん、世の中にはそのような分業が成り立っているし、このような働き方が効果的で重要になる局面が社会人になったらたくさんあるということもわかります。が、しかし、これはどこまでいっても、分業という行動の積み上げであって、「チームワーク」ではないんです。

なぜなら、「α」がないからです。

わたしがもっとも強く感じた違和感は、この分業による成果をみんなが「チームワークの結果だ」と誤認していることでした。分業に基づく行動の恍惚感に依存し続ける限り、1 + 1 はどこまでいっても2を超えられません。ここがチームワークと決定的に異なります。

効率化の先にある恍惚感

この恍惚感は一度味わうとなかなか抜け出せません。だって、自分の好きなことだけに注力していればいいんです。そこには、他者との摩擦はほとんど起きません。実際に、高校生活では何をするにもそれほど大きな揉め事も意見の相違など、ましてやアイデアが煮詰まるまで議論したりお互いを傷つけ合うほど真剣に議論を尽くしたりも起きませんでした。それぞれが自分のポジションを理解して動くだけで、能力が高い人材がそろえばそろうほど、アウトプットの品質が高くなっていくのですから。

一方で、わたしは中学のどろくさい達成感も知っています。その先にまだ見ぬ未達の領域があることも知っています。レベル10の人材が10人あつまって、もし本当の意味でのチームワークが発揮されたのなら、成果はそれ以上の120だったり150だったり、まるで自分たちが想像し得なかった境地に到達できたはずです。自分ひとりではなし得なかった境地に踏み込めることこそがチームワークの真髄なのですから。

「あなたの限界はそこなのか?」「わたしたちにはまだ先の未知の世界があるのではないか?」それが、わたしのいつもの主張でしたが、、、言語化があまり得意でなかった当時「言いたいことはわかるけど、りなるはいっつも精神論ばっかりだよね」と一蹴されてしまうのがオチでした。。。

いま思えばわたしは結構めんどくさいやつだったのかもしれないw

それの何がわるいのか

能力の高い人達の能力が遺憾なく発揮される、という意味においては、別にそれでもいいのじゃないか?それの何がわるいの?っていう意見もあります。実際に似たような集団や組織において、いまもそのように反論されることがあります。

エリートがエリートどうしで、その能力を遺憾なく発揮して、そこに恍惚感すら覚えるということ自体は、確かにわるいことではありません。そのような集団で人生を送れれば素晴らしいことだとわたしも思います。そういう意味では、わたしも高校生活は気ままで楽しかった。

ただ、もちろん物事はそんなに単純には進みません。わたしが当時、最も嫌悪感を覚えた言葉があります。それは「つかえない」という言葉。わたしの友人も、先輩も、先生ですら、ほんとうによくこの言葉を使っていたのを覚えています。「あいつ、つかえないよな。」「あれじゃつかえないから、りなる代わってよ」彼らは何の気なしにこの言葉を使っているようでした。友人にあえて聞いたこともあります、「あの先生『つかえねーな』って口癖みたく言うよね?」でも、ほとんどの友人がハテナと言った反応でした。それに気づいていないんです。きっとね、もっともな意見だから違和感を感じなかったのだと思います。そのくらい自然に使われていた言葉でした。

よくよく考えてみると、これはつまり「分業ライン」にハマる人は「つかえる」そうでない人は「つかえない」といったように、人を単にスキルとして便益で見ているということの現れです。

分業ライン上でしか見ることができない人たち

するとどういうことが起こるか想像できますか?「つかえない」から交代させよう。もっといい人材がいるから別の担当に交代したほうがよい。と言ったことが横行するようになります。実際に、そのほうが効率よく成果が得られるからです。

能力がある人ですら、「もっと」能力のある人が登場した瞬間に交代を言い渡されることになります。まるで工場の生産ライン上に並ぶロボットを置き換えるかのように。この「つかえない」という言葉にわたしは強烈な嫌悪感を感じていました。

分業ラインにフィット「する」か「しない」かでしか物事を見れなくなってしまう世界はとても非情であり過酷な世界です。恍惚感の先にあるのはこのような自分を含めた「人」を交換可能なスキルとして評価する視点ではないかと思います。

このような偏ったエリート意識の芽生えた先は、自分のスキルを遺憾なく発揮するために有用かどうかの判断でしかなくなってしまいます。チームがどうあれば豊かになれるか、クセのつよい◯◯さんを活かすにはどうしたらいいか、体力のない◯◯さんと協力するにはどうすればいいか、そういった人を活かしたり、チームを醸成することには、どこまでも無関心になりえます。「つかえない」レッテルを貼られた人材に内在する「α」の可能性を排除してしまうのです。そうやって排他的な素地を知らずのうちに構築してしまうのです。

エリート教育に思う

さてさて、長くなってしまいました。

エリートというのは、単に天才的な能力を遺憾なく発揮するための環境を選り好みするのではダメだとわたしは思っています。その与えられた能力を持たざるものに対して発揮する責任があると思います。それはどんなに小さな事であってもいいんです。

ところがどうでしょう。今の多くの一流企業にいるエリート社員はみな一様に分業制に勤しんでいます。始業前に社員専用のドリップコーヒーを片手に、フィットネスフロアでワークアウトしてから出社する。それが、個々の生産性を上げるなどということに躍起になっています。きっとそのような職場では、あいつはつかえない、あの下請けはつかえない、あの担当はつかえない、そんな言葉が飛び交っていることでしょう。「つかえない」そんな言葉がみなさんの職場から聞こえてきていませんか?ご自身でそんな発言を無意識にしていませんか?

最近、友人の子供を有名進学校に進学させたいなんて相談を受けたんです。わたしの周囲の子供たちがそういう年齢に近づいてきたこともあります。でも、わたしはエリート校で教育を受けることが、必ずしもその子の将来を豊かにするとはあまり思っていません。エリート校というのはある意味、とても「偏った人間の集まり」です。優秀という種の人間しかいないのですから。一流企業もそうです。エリートはエリートどうしで組みたがる。それは分業ライン上の恍惚感があるからです。そのような画一的な人材で偏った場に、本質的なエリート意識は芽生えないでしょう。本質的なエリート教育は、分業ライン上で自分を活かすことではなく、チームワークによる協力によって他を活かすことだと思います。それによってチームに内在する「α」を育むことです。己の限界を協力によって超える視座だと思います。エリートには、そのために己の持てる能力を発揮する責任があるのです。

りなる



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