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マネーハラスメント

マネーを追求することによって、時間・労働力・自由な生き方への機会はますます奪われている。持たざるものに労働を強いているというだけでなく、深刻なのは持たざるもの自身もまたその一端を担っているという構造的問題があることだ。

需要が大きいものほど必要なもの、という原則によってより多くの利益を追求する。モノを極限まで効率的に売るために、わたしたちは毎日雑誌やWebに織り込まれた宣伝に晒されている。15分に一回はTVCMを目にするし、外を歩けば街のそこら中に張りちらかされた広告を眺めることになる。美女やイケメンに「アナタはもっと良い自分になれる!」と翻弄され、3ヶ月毎に変わるトレンドを盲信的に追い続けている。より良い「わたし」になるために、今日もその原資を稼ぎにオフィスに通う。そこには人生のやりがいは薄く、キャッシュフローを生むための構造的な歯車がある。より良い「あなた」になるためには良い「商品」が必要で、そのためには正当な労働による「稼ぎ」が必要だという無限ループ。この生命の牢獄を正義たらしめているのがマネーであり、社会の歪を引き起こしているハラスメントだ。

このような構造は複雑に構成されていて、歴史の結果としてそうなったのか、恣意的に作り上げられたのか、わたしにはわからない。ただ、多くの資産はより多くの資産を生む、持つものと持たざるものの格差は革命でも起きない限り広がる一方だということは最近になってどうやら論証されたらしい。当たり前だと言えば当たり前じゃないかという気もする。

むしろ問題は持たざるものにもある。この社会構造に熱狂しているのは彼らの方だからだ。対価として給料を受け取ることが正義であり、そのための労働は正当であり美徳であるとする。それ自体の考えは否定するつもりはない。そこにあなたの生きがいがあって一生懸命働けるのであれば、それはすばらしことだ。ただ、あなたの生きがいはたいてい職場にはない。トレンドに追いつき、より多くを持つものが幸せだと思い、持たざるものは不幸なんだという思想に熱狂している。きらびやかな世界を羨み、そして妬む。そのような社会を批判できればよいのだけれど、苦労して対価を得ることが美徳であるという考えからは逃れられない。その美徳そのものがトレンドであることに気づけないからだ。

近年、「もう嫌な仕事に振り回されるのはやめよう」「お金は便利に使う道具であって生きるために必要なものじゃない」「楽に楽しく生きがいをもって生きよう」などと主張をする人はSNSで異常発生している。にもかかわらず、その声に対する(むしろ持たざるものの)批判は絶えない。

その思考パターンから逃れるにはどうすればいいだろう?答えはシンプルだと思う。「わたしは何者か?」という質問に立ち返ることだ。自身の理想に向けて試行錯誤すべきなのに、それがわからないから迷走し続けマネーを拠り所にしていないだろうか?近年の調査では日本の社会人には熱意を持ったやりがいを感じている人は6%しかいないのだそうだ(アメリカは30%)。生きがいや理想を棚上げにしていないだろうか?社会が変わっても、自身が変わらなければマネーのハラスメント構造はなくならない。



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