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「型」は崩すことに本質がある

日本には「型」の文化があります。

茶道の師範さんのお話を耳にする機会があって「型」に対しての考え方がちょっと変わりました。

横道 ーー 以前やっていた剣道にも型があって、初心者はまずその型を叩き込むことで技の基本を身に着けます。型によって体系的に技のいろはを習得できるいわばマニュアルのようなもの。。。でも、正直に言うと「型」ってなんてウザいんだろうって思ってました。 だって、色んな目的があっていいじゃない。強くなりたいって思っている人もいれば、楽しみたい、ただ体験したいってのでもいい。そういう人にとって必ずしも「型」に意味があるとは思えない。そんな風に漠然と感じていたのです。

日本文化の「型」にはマニュアルとはちょっと違った意味合いがあります。たぶん、茶道の師範はそのようなことを言い含んでいたように思うんです。しっかりとした言葉にはしなかったのですが、わたしが感じたことをnoteにしてみたいと思います。

「型」は言葉を超えた対話

「型」っていうのはコミュニケーションなんだ、と。

ん?ドウイウコト?

詳しい所作は、わすれてしまいましたけれども、例えば茶道には飲み終わったあとに器をちょこっと回転させる所作がある。これは意味としては、亭主に対しての感謝と敬意の意味が込められているらしい。

その型が体に染み付くほど自然になってくると、だんだんその所作によって、対話ができるようになるのだと。あれ?いつもよりも器を回す勢いが早いな?お茶おいしかったのかしら!!とか、体調がすぐれないのかな?とか、いいことあったのかな?とか。

ときとして、心の映ろいは言葉を超えます。「型」はそのための文法なんだと、そういうことと、わたしは理解しました。

型は崩すことに本質がある

テレビで華道の先生が、型は崩すことに本質がある、みたいなことを言っていたのを書いててフッと思い出しました。美しいとされる型の基本があり、その型を崩すことで個性を表現する、くらいにしか当時は聞いていなかったけれど、これもきっと単に美しいを表現する時に「型」という文法を取り入れることで広がった表現の形なのじゃないかと、思うのです。

例えば、華道の「型」において、華は左に垂らす形で置かなければならない(そんなルールはありません。たとえ話です。)、そこをあえて右上に開いてみせることで、特別な意味をもたせようとする。これは、単に右に垂らすという美的センスのみからは生まれ得ないものだと思うのです。「型」が身に染み付いたモノだからこそ語り合える対話なんだと思うのです。

FF外から失礼します

こういった基本軸を定めることで、言葉を超えた表現の幅を広げようとする文化が、日本の「型」にはあるのじゃないか?

FF外から失礼します。

この呆れるくらいに、どうしょうもなく意味のない挨拶は単なる挨拶ではなく、ひょっとすると、これが「型」として昇華することで、それ以上のメタ情報をもたらす可能性を秘めている。そこに思いを馳せてみたりします。すると一見意味のないルールを再現なく生み出す文化にすこし違った意味が見え隠れしてきます。

日々積み重なる、あ・うん

毎日夕方7:00にブラックの缶コーヒーを買っていくサラリーマン。そのルーティンに人生が垣間見れるくらいになったある日。いつもより5分早くにお店に来て、一緒に小さなシュークリームを買っていった。。。これはもうイベント発生なのです。言葉をかわさなくってもわかります。レジにいた店員は、いつもの台詞をいつもと同じタイミングで、いつもよりちょっと大きめの声で「いつもありがとうございます」などと発声する。普段笑わないサラリーマンがちょっと驚いて、でもしっかり目をみてにっこり笑い返してくれた。そこには言葉以上に気持ちを通わせた記憶に残る対話があります。

「型」をマニュアルではなく文法としてとらえたとき、文字で表現しきれない、表現の幅が生まれます。いくつもの「型」を共有すること。それは普段の何気ない行動のなかにもあります。幼い頃から一緒に遊んでいる兄弟。学生のころ何億時間も一緒に過ごした友人。30年以上毎日毎日連れ添った夫婦。そこにはふたりにしかわからない暗黙の間が積み重なっていて、その間をちょっと崩してみたり、ちょっと盛ってみたりすることで、心配になったり、突然笑いがこみ上げてきたりするのです。日々の挨拶に、毎日のルーティンに、別れ際の車のウィンカーにすら、「ア・イ・シ・テ・ル」のサインをのせることができるのです。



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